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戦国大名戦国時代〜江戸初期

加藤清正家(肥後熊本藩主家、初期)

加藤清正(1562-1611)を中心とする豊臣秀吉子飼いの大名家。秀吉の母大政所の血縁(清忠が大政所の従兄弟)として幼少から秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人として頭角を現した。朝鮮出兵では蔚山城籠城戦・虎退治伝説などで知られ、肥後 25 万石(後に 54 万石)。築城の名手として熊本城(1607 完成、日本三大名城)を築いた。死後、子・忠広の代に家中騒動が幕府の知るところとなり、1632 年に改易。熊本は細川家に移封され、加藤家は江戸期大名としては短命に終わった。

  • 人物
    8
  • 家族構造
    4
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    100%
  • 信頼度
    ★★★
家系図
加藤 清忠伊都加藤 清正正応院加藤 忠広八十姫清浄院加藤 光広聖林院 (加藤清正の母)加藤忠正本浄院本覚院 (加藤清正側室)正応院浄光院 (加藤清正の側室)山崎片家の娘 (加藤清正の正室)崇法院水野忠重

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加藤清正家(肥後熊本藩主家、初期) 主要人物

8 人物のうち先頭 15 名 ・ 4 家族構造
  • 1加藤清忠1526-1564清正父
  • 2伊都清正母
  • 3加藤清正1562-1611肥後守
  • 4正応院1574-1610清正側室
  • 5加藤忠広1601-1653熊本藩 2 代
  • 6八十姫1601-1666清正娘
  • 7清浄院1582-1656清正正室
  • 8加藤光広1614-1633忠広長男
  • 9聖林院 (加藤清正の母)?-1600SPARQL自動拡張
  • 10加藤忠正1599-1607SPARQL自動拡張
  • 11本浄院1598-1627SPARQL自動拡張
  • 12本覚院 (加藤清正側室)1550-1626SPARQL自動拡張
  • 13正応院1550-1651SPARQL自動拡張
  • 14浄光院 (加藤清正の側室)1550-1625SPARQL自動拡張
  • 15山崎片家の娘 (加藤清正の正室)SPARQL自動拡張

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もっと詳しく — 加藤清正家(肥後熊本藩主家、初期) の歴史と人物像を読む

加藤清正家の家系図 — 賤ヶ岳七本槍から熊本城築城、そして改易まで

家系図ずかん編集部 公開: 2026-05-01 | 品質: Draft(信頼度 ★★)

[戦国大名] [戦国時代〜江戸初期] [日本・尾張・肥後]

加藤清正(1562-1611)を中心とする豊臣秀吉子飼いの大名家。秀吉の母大政所との縁戚関係から幼少時から秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人として頭角を現した。朝鮮出兵では先鋒として活躍、虎退治伝説で広く知られる。築城の名手として熊本城(1607 完成、日本三大名城)を築き、肥後 54 万石を領有。だが死後、子・忠広の代に家中騒動が幕府の知るところとなり、1632 年に改易。熊本は細川家に移封され、加藤家は江戸大名としては短命に終わった。


概要

項目内容
一族名加藤家(清正系)
起源尾張国愛知郡中村、刀鍛冶の家
拠点熊本城(1607-1632)
家紋蛇の目(と桔梗)
石高肥後北半国 19 万石(1588) → 肥後一国 54 万石(1601) → 改易(1632)
宗教法華宗(日蓮宗)、現在の清正公信仰の源

代表人物

1. 加藤清正(1562-1611)— 秀吉子飼い、築城の名手、清正公

尾張国中村に生まれ、父清忠の早逝後、母伊都が秀吉の母大政所と縁戚だった縁で幼少から豊臣秀吉に小姓として仕える。1583 年賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方と戦い七本槍の一人として頭角を現し、3000 石。

1588 年、肥後北半国 19 万石を与えられて熊本入り(南半は小西行長)。朝鮮出兵(文禄・慶長の役 1592-1598)では先鋒として参戦、特に蔚山城籠城戦(1597-1598)で兵糧不足の極限状況を耐え抜いた。「虎退治」の伝説(朝鮮で猛虎を槍で討ち取った)は江戸期に講談・絵巻で広まり、清正の武勇のシンボルとなった。

秀吉死後は石田三成と対立し徳川家康に接近、家康養女の清浄院を正室に迎えた。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、九州で小西行長領を制圧(小西は関ヶ原本戦敗北で処刑)。戦後肥後一国 54 万石を領有する大々名となる。

築城・治水の名手として知られ、熊本城(1601-1607 完成、日本三大名城)の他、江戸城天守台名古屋城天守台石垣などの天下普請で石垣を担当。白川治水など肥後の国土整備にも功あり。

1611 年熊本城で 50 歳で没。法華宗(日蓮宗)信徒で、死後の清正公(せいしょうこう)信仰は江戸期から現代まで全国に広がる。

2. 加藤清浄院(?-1631)— 家康養女、清正正室

水野忠重(家康異父弟)の娘で徳川家康の養女として加藤清正に嫁いだ。関ヶ原前夜の徳川・加藤の政治的接近を象徴する婚姻。八十姫(瑤林院)を産んだ。1631 年没。

3. 加藤八十姫/瑤林院(1601-1666)— 紀州徳川家初代正室

清正と清浄院の娘。1617 年、徳川家康の十男・徳川頼宣(紀州徳川家初代)の正室として嫁ぐ。家康と清正の関係を象徴する政略結婚で、御三家紀州徳川家の初代正室として家中に重きをなした。加藤家改易後も瑤林院は紀州徳川家で生涯を全うし、1666 年和歌山で没。

4. 加藤忠広(1601-1653)— 改易された 2 代藩主

清正の三男(嫡男格)、母は側室正応院。1611 年、11 歳で家督相続、当初は家臣団の合議制で藩政を運営。だが1632 年(寛永 9 年)、家中騒動と幕府への謀叛嫌疑(江戸への参勤途上で謀叛計画書類が発見されたとされる)から、改易処分となった。出羽国庄内藩主酒井忠勝の預けとなり、羽前丸岡(現・鶴岡市)で 53 歳で没した。

改易後、熊本は細川忠利(小倉藩主から)に与えられ、以後幕末まで細川家が肥後を治めた。


歴史的背景

戦国〜安土桃山期

清正は秀吉の母方縁者として幼少から秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人として頭角を現す。1588 年肥後北半国 19 万石を拝領、朝鮮出兵で武名を上げた。

関ヶ原と肥後一国 54 万石

秀吉死後、石田三成と対立して徳川家康に接近、家康養女を正室に迎えた。関ヶ原で東軍として小西行長領を制圧、戦後肥後一国 54 万石を領有。

熊本城築城

1601-1607 年、熊本城を築城。石垣・櫓・門の重層構造は織豊期築城技術の集大成とされ、日本三大名城の一つに数えられる。なお現代まで残る天守は明治の西南戦争で焼失したものを 1960 年に外観復元したもの、本来の宇土櫓は江戸初期からの現存遺構。

改易と細川家への移封

1611 年清正死去、子忠広は 11 歳で藩主に。1632 年、家中騒動と謀叛嫌疑で改易。熊本は細川忠利に与えられ、加藤家は江戸大名としては短命に終わった。

清正公信仰

清正の死後、法華宗寺院(本妙寺熊本、池上本門寺東京、覚林寺東京白金など)を中心に清正公(せいしょうこう)信仰が広がり、軍神・除災・勝運の神として今も篤く崇敬される。「清正公さん」と呼ばれ、東京白金の覚林寺は特に有名。


家紋「蛇の目」

加藤清正の家紋は蛇の目(同心円紋)。武具の具足や旗指物に多用された。なお別系の桔梗紋も加藤家に伝わる。死後、法華宗寺院の意匠としても用いられた。


関連する家系図

  • 豊臣家 — 清正の父清忠は秀吉の母大政所の従兄弟、清正は秀吉子飼いとして賤ヶ岳七本槍・朝鮮出兵で活躍
  • 徳川家 — 清正娘の八十姫(瑤林院)が家康十男・徳川頼宣(紀州徳川家祖)の正室、清正自身も関ヶ原で東軍

出典

ランク A

  • Wikidata: Q321337(加藤清正)、2026-05-01 verified

ランク B

  • 山田貴司『加藤清正』戎光祥出版、2017

ランク C(Wikipedia、2026-05-01 確認)


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最終更新: 2026-05-01 執筆: 家系図ずかん編集部

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プリセット ID: kato-kiyomasa / schemaVersion: 1.3 / 更新: 2026-05-01T00:00:00+09:00