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家系図ずかんぱぱっと家系図作成
戦国大名安土桃山時代

豊臣家

秀吉の出世だけでなく、弟秀長、甥秀次、実子秀頼、淀殿と千姫までを並べると、豊臣政権がなぜ急に強くなり、なぜ短く終わったかが見えます。

一代で天下を取り、30 年で断絶した家

主要人物 8安土桃山から大坂の陣へ出典は下部に整理

この家系を下敷きに自分の家系図を作る →

最初に見るところ

流れで見る

1

秀吉が織田家から天下人へ上がる

信長の家臣から本能寺後の主導権を握り、関白・豊臣姓・天下統一へ進みます。

2

実子不足で養子と甥に頼る

北政所との間に子がなく、弟秀長や甥秀次を政権の柱にしながら後継を組みます。

3

秀頼誕生で後継設計が崩れる

秀頼誕生後に秀次事件が起こり、秀吉死後は淀殿と幼い秀頼が大坂で孤立していきます。

関係をしぼって見る

家の流れ

出発
木下弥右衛門大政所

尾張中村の家から秀吉・秀長・日秀尼・朝日姫が出る。

政権
豊臣秀吉北政所豊臣秀長

秀吉が天下統一へ進み、北政所と秀長が政権の支えになる。

後継
豊臣秀次豊臣秀勝豊臣秀保小早川秀秋

実子が育たず、甥や養子で後継と同盟を組む。

宗家
淀殿豊臣鶴松豊臣秀頼

淀殿が鶴松・秀頼を産み、秀頼誕生で継承設計が大きく変わる。

終焉
千姫豊臣国松天秀尼

大坂の陣で秀頼・国松の男系は絶え、天秀尼だけが助命される。

系図でひと目でたどる

家系図で見る

家系図
表示範囲
世代範囲
祖先子孫
豊臣 秀吉木下弥右衛門大政所北政所淀殿豊臣 鶴松豊臣 秀頼千姫伊茶豊臣 国松天秀尼京極龍子
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豊臣家 の家系図(テキスト要約・12人)

  • 豊臣秀吉(1537–1598)、親: 木下弥右衛門・大政所、配偶者: 北政所
  • 木下弥右衛門(1500–1543)、配偶者: 大政所
  • 大政所(1516–1592)、配偶者: 木下弥右衛門
  • 北政所(1549–1624)、配偶者: 豊臣秀吉
  • 淀殿(1569–1615)、配偶者: 豊臣秀吉
  • 豊臣鶴松(1589–1591)、親: 豊臣秀吉・淀殿
  • 豊臣秀頼(1593–1615)、親: 豊臣秀吉・淀殿、配偶者: 千姫
  • 千姫(1597–1666)、配偶者: 豊臣秀頼
  • 伊茶(?–)、配偶者: 豊臣秀頼
  • 豊臣国松(1608–1615)、親: 豊臣秀頼・伊茶
  • 天秀尼(1609–1645)、親: 豊臣秀頼・伊茶、養親: 千姫
  • 京極龍子(1553–1634)、配偶者: 豊臣秀吉
線の見方丸=人物(写真または頭文字)。生没年は名前の下に表示。

豊臣家は見方の参考として眺められます。 自分の家族の家系図は、空のテンプレートから作れます。

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ざっくり年表

人物の時間軸

豊臣秀吉 1537-1598天下人
関白統一死去
豊臣秀長 1540-1591支柱
死去
北政所 1549-1624正室
婚姻高台寺
淀殿 1569-1615宗家
秀頼大坂
豊臣秀次 1568-1595関白
関白切腹
豊臣秀頼 1593-1615当主
婚姻大坂
小早川秀秋 1582-1602養子
小早川関ヶ原
千姫 1597-1666徳川接続
婚姻救出
  1. 1582山崎の戦い

    本能寺後に光秀を破り、織田家中の主導権へ近づく。

  2. 1585関白就任

    武家初の関白となり、翌年に豊臣姓を賜る。

  3. 1590天下統一

    小田原征伐と奥州仕置で全国支配を完成させる。

  4. 1591秀長死去

    政権の調整役を失い、同年に鶴松も夭折する。

  5. 1595秀次事件

    秀頼誕生後、秀次と一族が失われ後継体制が揺らぐ。

  6. 1600関ヶ原

    豊臣政権の実権が徳川へ移る大きな分岐点になる。

  7. 1615大坂夏の陣

    秀頼・淀殿が自害し、国松処刑で宗家男系が断絶する。

まず覚える人だけ

主要人物

  • 豊臣秀吉豊臣秀吉1537-1598天下人

    織田家臣から関白・豊臣姓・天下統一へ進んだ豊臣家の起点。

  • 豊臣秀長豊臣秀長1540-1591政権支柱

    秀吉の弟。軍事と大名間調整を支え、早い死が政権の弱点になる。

  • 北政所北政所1549-1624正室

    秀吉の正室。北政所として豊臣家中の人脈と後見を支えた。

  • 淀殿淀殿1569-1615宗家

    秀頼の母。大坂城で豊臣宗家を支え、最後は大坂夏の陣で自害する。

  • 豊臣秀次豊臣秀次1568-1595関白

    秀吉の甥で一時は後継者。秀頼誕生後の秀次事件が大きな転機になる。

  • 豊臣秀頼豊臣秀頼1593-1615当主

    秀吉と淀殿の子。幼くして豊臣家を継ぎ、大坂の陣で宗家が終わる。

  • 小早川秀秋小早川秀秋1582-1602養子

    北政所の甥で秀吉の養子。小早川家を継ぎ、関ヶ原で豊臣政権の分岐点に立つ。

  • 千姫千姫1597-1666徳川接続

    秀忠の娘で秀頼の正室。豊臣と徳川を結ぶ婚姻の象徴になる。

全体像をもう少し見る

もっと詳しく

豊臣家は秀吉だけで成り立っていない

秀吉の出世が目立ちますが、家として見ると秀長・北政所・甥たちの支えが重要です。短期間で大きくなった分、補佐役や後継の不足がそのまま弱点になりました。

秀次事件は後継設計の崩れとして見る

秀次は秀吉の甥で、秀吉から関白を継いだ人物です。ところが秀頼誕生後に秀次事件が起こり、後継の選択肢と一族の支えが大きく削られました。

大坂の陣で男系は途絶える

1615年の大坂夏の陣で秀頼・淀殿が自害し、国松も処刑されました。天秀尼は助命されますが、豊臣宗家の男系はここで事実上断絶します。

短く読む

天下統一と断絶の 30 年を読む

秀吉が織田家から天下人へ

秀吉は織田信長の家臣から台頭し、本能寺の変後に山崎の戦いで明智光秀を破ります。関白就任と豊臣姓の下賜を経て、1590年に天下統一へ到達しました。

秀長と秀次で後継を支えた

弟秀長は政権の調整役、甥秀次は後継候補として豊臣家を支えました。実子が育ちにくかった豊臣家では、兄弟・甥・養子が家の構造そのものでした。

秀頼誕生で家中が揺らいだ

1593年に秀頼が生まれると、秀次を中心にした後継設計は不安定になります。1595年の秀次事件は、豊臣家の継承と結束を大きく弱めました。

大坂の陣で宗家が終わった

秀吉没後、関ヶ原で政権の実権は徳川へ移ります。1615年の大坂夏の陣で秀頼・淀殿が自害し、豊臣宗家は短い歴史を閉じました。

出典をたどって深く読む

豊臣家をさらに詳しく

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農民出身と伝わる豊臣秀吉が、織田信長の家臣から一代で天下人となり、1585 年に関白、1586 年に豊臣姓を賜って創設した一族。秀吉の没後、幼い秀頼を淀殿が支えたが、関ヶ原の戦い(1600)で政権基盤が崩壊し、大坂夏の陣(1615)で秀頼・淀殿が自害して事実上断絶した。一代で成立して一代で消えた、日本史上もっとも劇的な家系の一つ。

概要

項目内容
一族名豊臣家(豊臣氏、羽柴氏、豊臣政権)
起源尾張国愛知郡中村の下層武士(農民とも)、木下弥右衛門の子・秀吉
活動時期1573 年(秀吉羽柴改姓)〜 1615 年(大坂夏の陣で断絶)
主な拠点大坂城(本拠)、伏見城(秀吉晩年)、聚楽第(京都)
家紋五七の桐(五七桐)、五三の桐
歴史的役割戦国統一、朝鮮出兵、太閤検地・刀狩令など近世社会の骨格形成

豊臣秀吉は、尾張中村の下層の出から身を興し、織田信長の家臣→本能寺の変後の後継者→天下人という、日本史でも類を見ない階段を駆け上がった。1585 年に武家初の関白となり、翌年には朝廷から豊臣の新姓を賜って、藤原・源・平・橘に次ぐ「第五の本姓」を創った。

しかし秀吉には実子が長く恵まれず、甥の秀次を養子として関白職を譲り、弟の秀長を政権の重しとした。ところが晩年の 1589 年に鶴松、1593 年に秀頼が実子として誕生したことで家中の秩序が崩れ、1595 年の秀次事件で甥一族が大量粛清される。

秀吉没後は幼い秀頼を母の淀殿と五大老・五奉行が支えたが、関ヶ原の戦い(1600)で豊臣政権は事実上徳川のものとなり、方広寺鐘銘事件(1614)を契機とする大坂冬の陣・夏の陣の末、1615 年に秀頼・淀殿が自害。嫡男国松は京都六条河原で斬首され、豊臣家の男系は絶えた。長女の天秀尼だけが助命され鎌倉東慶寺の尼として 1645 年まで生きた。一族の盛衰はわずか 30 年ほどで幕を閉じる。


系図で読む豊臣家

右(モバイルでは下)のインタラクティブ家系図で養子の破線をたどると、豊臣家の最大の弱点が一目で分かる。秀吉には長く実子がなく、甥の秀次(養子・2 代関白)、秀勝、弟秀長の養子となった秀保、そして北政所の甥小早川秀秋と、後継を支えるための養子が破線で何本も描かれる。血のつながりではなく養子で政権を束ねようとした構造そのものが、図に現れている。

ところが婚姻線を見ると、別の物語が立ち上がる。秀吉の側室淀殿は浅井三姉妹の長姉で、その妹たちは徳川秀忠・京極高次に嫁いでいる。豊臣の血は婚姻線をたどって徳川や諸大名へ広がっているのに、肝心の男系の縦の線は細い。秀頼の子は嫡男国松で途切れ、長女天秀尼は尼となって子を残さなかった。図の上で豊臣の男系をたどると、わずか三代で線が完全に途切れる — 養子で横に広げ、婚姻で外に伸びながら、まっすぐ下に続く血だけが絶えた家。それが系図に刻まれた豊臣家の姿である。


代表人物

本記事では 5 名を代表として紹介する。本文では物語の骨格としての関わりを書き、個人の詳細はビューア詳細パネルで展開する。

1. 豊臣秀吉(1537-1598)— 成り上がりの天下人

尾張国愛知郡中村の下層武士の子として生まれた(農民出身説もある)。初名木下藤吉郎。織田信長に仕え、1573 年に長浜城主となって羽柴秀吉と改姓、1582 年の本能寺の変後の山崎の戦いで明智光秀を討ち、織田家中の覇権を握る。

1585 年に関白(武家として初)、翌 1586 年に朝廷から豊臣の姓を賜り、1590 年の小田原征伐で天下統一を完成させた。太閤検地・刀狩令など近世日本の社会秩序の骨格をつくる一方、晩年の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592-1598)は大失敗に終わった。1598 年、伏見城で 62 歳で没す。死後は豊国大明神として神格化された。

2. 豊臣秀頼(1593-1615)— 生まれながらの王子、滅びの当主

秀吉と淀殿の次男(鶴松夭折後)。6 歳で父を失い、淀殿と五大老に支えられた。1600 年の関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍が敗れ、政権基盤は徳川のものとなったが、家康は秀頼を摂津・河内・和泉の 65 万石の大名として存置した。

1603 年、7 歳の千姫(徳川秀忠の娘)と政略結婚。成人後は大柄な青年だったと伝わり(身長を六尺余=約 197cm とする後世の所伝もあるが、一次史料・辞典類では確認されない)、側室伊茶との間に国松天秀尼を儲けた。しかし 1614 年の方広寺鐘銘事件(「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が家康侮辱と難癖)を契機に大坂冬の陣・夏の陣が起こり、1615 年 5 月 8 日、大坂城山里丸で母淀殿とともに自害した。享年 23。

3. 淀殿(1569 頃 -1615)— 浅井三姉妹の長姉、豊臣家の実質当主

浅井長政お市(織田信長の妹)の長女。妹に京極高次室の、徳川秀忠室のお江(後の 3 代将軍家光の母)。1573 年の浅井家滅亡、1583 年の賤ヶ岳の戦いで北ノ庄落城と、父母を相次いで失う悲劇の前半生を経て秀吉の側室となり、鶴松・秀頼を産んだ。

秀吉没後は事実上の豊臣家の統率者として大坂城で政治を主導。大坂の陣では徹底抗戦を主張し、夏の陣の最後に秀頼とともに自害した。生年は 1569 年説が通説(井上安代研究)で享年 47(1567 年説では享年 49)。

4. 豊臣秀次(1568-1595)— 悲劇の 2 代関白

秀吉の姉日秀と三好吉房の長男。子のない秀吉の養子となり、1591 年 12 月 28 日に関白職を譲られた(武家 2 代目)。古典収集・茶道・連歌に通じた教養人で、宣教師フロイスからは「穏やかで思慮深い」と評された。

1593 年の秀頼誕生で関係が悪化、1595 年 7 月に謀反の疑いで高野山青巌寺で切腹させられた。その後、妻妾・子女ら 30 余名(39 名とする所伝もある)が三条河原で処刑・晒首となる(秀次事件)。謀反の具体的証拠は史料上不明で、秀吉と秀頼誕生後の権力闘争説が有力。享年 28。

5. 千姫(1597-1666)— 豊臣と徳川をつないだ女性

徳川秀忠お江の娘。母お江は淀殿の妹なので、千姫は秀頼の従姉妹にあたる。1603 年、7 歳で秀頼に輿入れ。夏の陣で秀頼が自害した際、祖父家康の命で救出された。

翌年本多忠刻と再婚し、姫路城で暮らす。1626 年に忠刻が没すると落飾し天樹院を名乗り、江戸城大奥で家光・家綱二代の時代を通じて重きをなした。また、義娘となった秀頼娘の天秀尼の東慶寺入山を助け、後に東慶寺が「縁切寺」として女性を救う場となる源流を作った。享年 70。


秀吉の家族

豊臣家の不思議は、実子がほとんど育たなかったこと。正室北政所(ねね)との間に実子はなく、側室淀殿との間にようやく鶴松(1589、3 歳で夭折)・秀頼(1593)を得た。そのため、後継者確保のため秀吉は姉・弟・甥を中核にした家族戦略をとった。

姉・日秀尼(1534 頃 -1625)

秀吉の姉。三好吉房に嫁ぎ、秀次・秀勝・秀保の 3 兄弟を産んだ。この 3 人が秀吉の後継者候補となり、秀次は関白、秀勝は岐阜中納言、秀保は秀長の養子として大和大納言を継ぐという豊臣政権の中核を担う立場になった。しかし 3 人とも若くして没し、秀次事件で一族も失う。日秀は尼となって瑞龍寺(近江八幡)を建立し、息子たちを供養した。享年 92 前後。

弟・豊臣秀長(1540-1591)— 政権の屋台骨

秀吉の実弟(または異父弟)。大和・紀伊・和泉の 3 ヶ国に河内の一部を加えた約 100 万石を領し、大和郡山城を居城とする大和大納言となり、諸大名の調整役として豊臣政権の屋台骨と称された。1591 年に大和郡山城で病没。その直後に鶴松も夭折し、秀次失脚・朝鮮出兵失敗・秀吉死去と政権崩壊への転機が連続した。

妹・朝日姫(1543-1590)— 政略の駒

秀吉の妹。最初は尾張の庶民(副田吉成の説)に嫁いでいたが、秀吉が天下人となった 1586 年に徳川家康の継室として輿入れさせられた。当時ともに 40 代の夫婦は子に恵まれず、1590 年に京都で病没。秀吉・家康の一時的な政治的和睦を象徴した存在。

母・大政所(1516-1592)— 従一位の農婦

秀吉の母「なか」。秀吉の関白就任により従一位・大政所の称号を得た日本史上唯一の農婦出身女性。1592 年、聚楽第で 77 歳で没。

正室・北政所(高台院、1549-1624)— 政権の影の支柱

秀吉との結婚は 1561 年。浅野長勝の養女として秀吉(当時は木下藤吉郎)に嫁いだ。実子はなかったが、加藤清正・福島正則など秀吉や自身の親類縁者を養育し、豊臣政権の「母」として振る舞った。秀吉没後に落飾し高台院を名乗り、1605 年に徳川家康の後援で高台寺を京都東山に建立。関ヶ原の戦いでは東軍寄りだったとされ、晩年まで徳川家と良好な関係を保った。享年 76。

側室・淀殿(1569 頃 -1615)

前述の代表人物 3 参照。


秀次事件 — 豊臣家最大の内紛

1591 年、3 歳の鶴松が夭折したその年、秀吉は甥の秀次を養子として関白職を譲った。これで一時的に後継問題は解決したかに見えた。

しかし 1593 年に秀頼が誕生すると、秀吉は急に秀次を疎んじるようになる。1595 年 6 月、秀次に謀反の嫌疑がかけられ、聚楽第から高野山青巌寺へ強制出家させられた。7 月 15 日、秀次は「道意」と号して切腹(賜死)、享年 28。

さらに秀吉の命は苛烈で、秀次の妻妾・子女ら 30 余名(39 名とする所伝もある)が 8 月 2 日に三条河原へ引き出され、斬首・晒首となった。処刑された子女には幼児を含み、この措置は当時としても衝撃的で、『多聞院日記』など同時代史料に憤りが記される。

秀次の謀反の具体的証拠は残っていない。現代の歴史学では、秀頼の後継を盤石にするための粛清説が有力。この事件で豊臣一族の核となる男系(日秀・秀長系)は大きく削られ、政権の中核が脆弱化した。

母の日秀尼は息子 3 人を失い(秀勝は朝鮮で病死、秀保は急死、秀次は処刑)、尼となって京都に瑞泉寺を建て、息子たちを供養した。


大坂の陣 — 豊臣家の終焉

秀吉の没後、秀頼は大坂城で成長したが、関ヶ原の戦いで豊臣政権は徳川のものとなり、秀頼は摂津・河内・和泉 65 万石の一大名となった。しかし秀吉の遺産と諸大名の忠誠心、大坂城の巨大な金蔵は、家康にとって除去すべき脅威だった。

方広寺鐘銘事件(1614 年 7 月)

秀頼が再建した方広寺大仏殿の梵鐘銘文に「国家安康、君臣豊楽」の字句があり、家康の「家康」が分断され、「豊臣」が楽しむと書かれていると家康が難癖をつけた。これが開戦の口実となる。

大坂冬の陣(1614 年 11-12 月)

家康は 20 万を超える大軍で大坂城を包囲。豊臣方は真田信繁(幸村)・後藤又兵衛ら浪人衆と 10 万の兵で籠城戦を展開、大坂城は容易に落ちなかった。和議で真田丸等の外郭を破却、惣堀埋立の条件を飲まされる。

大坂夏の陣(1615 年 4-5 月)

和議破棄を名目に徳川軍が再攻撃。真田信繁の茶臼山突撃は家康本陣を脅かしたが、力尽きて戦死。1615 年 5 月 7 日に大坂城落城、8 日、秀頼・淀殿が山里丸で自害。享年秀頼 23、淀殿 47。

秀頼の子女の運命

  • 嫡男・国松(8 歳): 落城時に城を脱出し京極家に匿われたが、5 月 21 日に捕らえられ京都六条河原で斬首。豊臣宗家はここで男系断絶。
  • 娘・天秀尼(7 歳): 義母千姫の嘆願で助命。千姫の養女として出家、鎌倉東慶寺に入山。後に東慶寺 20 世住持となり 1645 年まで生きた。

こうして豊臣家は秀吉の成立から 30 年、秀頼の没後にすべての男系血統を失って断絶。唯一生き残った天秀尼も、尼として 36 歳で没し、秀吉の血は完全に途絶えた。


家紋「五七の桐」

豊臣氏の家紋は五七の桐(太閤桐)。桐紋は古来、皇室・朝廷の紋章で、臣下に下賜される最高位の紋とされていた。足利将軍家も桐紋を朝廷から拝領しており、秀吉も後陽成天皇から正式に下賜を受けて使用した。

「五七」は花序の花数(5-7-5 の配列)を示す。より格下の「五三の桐」は秀吉が家臣に広く下賜したため、現代日本では最も普及した家紋の一つとなっている。

現在、内閣総理大臣の紋章は五七桐で、皇室→足利→豊臣→現代政府という桐紋の継承は、権威の象徴としての連続性を示している。


歴史的背景

成立期(1573-1585)— 織田家中の出世

秀吉は織田信長の草履取りから身を興し、足軽大将・長浜城主と昇進、1582 年の本能寺の変で主君を失うと山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議で信長の孫・三法師を擁立して織田家中の主導権を握った。賤ヶ岳の戦い(1583)で柴田勝家、小牧・長久手の戦い(1584)で織田信雄・徳川家康と戦い、政治決着で家康を臣従させた。

絶頂期(1585-1591)— 関白・豊臣政権

1585 年関白就任、四国平定、1586 年豊臣姓賜与、1587 年九州平定、1590 年小田原征伐・奥州仕置で天下統一完成太閤検地(1582-1598 に全国で実施)、刀狩令(1588)、身分統制令(1591)により、農民と武士を分ける近世社会の骨格を作った。

揺らぎ期(1591-1598)— 後継問題と朝鮮出兵

1591 年に弟秀長死去・鶴松夭折、秀次を関白に譲位。しかし 1593 年に秀頼誕生、1595 年に秀次事件、1592-1598 年に文禄・慶長の役(朝鮮出兵)と、政権の屋台骨が次々崩れた。1598 年 9 月、秀吉は伏見城で没す(享年 62)。

崩壊期(1598-1615)— 関ヶ原と大坂の陣

五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と五奉行(石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以)による合議制で秀頼を支える体制が始まったが、家康の専横で瓦解。関ヶ原の戦い(1600)で西軍敗北、豊臣政権は事実上徳川のものとなった。

関ヶ原で小早川秀秋(秀吉の養子、北政所の甥)が東軍に寝返ったのは、豊臣家自身が分裂していたことを象徴する。

大坂冬の陣(1614)、大坂夏の陣(1615)で豊臣家は滅亡。秀吉の成立から数えて約 30 年で家系は途絶えた。


出典・参考文献

ランクA(一次資料)

  • Wikidata: 本プリセットの人物 16 名の Q 番号・基本プロパティは Wikidata で 2026-04-22 に確認済み(CC0、検証済み ✓)
  • 『寛永諸家系図伝』(1643 年成立、江戸幕府編纂)— 書誌として列挙、原典該当箇所は未確認
  • 『寛政重修諸家譜』(1812 年、江戸幕府編纂)— 同上、未確認
  • 『多聞院日記』(1478-1618)— 奈良興福寺多聞院の同時代日記、未確認

ランクB(学術書)

  • 小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書、2012
  • 小和田哲男『豊臣秀次』PHP 文庫、2002
  • 名古屋市博物館 編『豊臣秀吉文書集』吉川弘文館、2015
  • 堀新・井上泰至 編『秀吉の虚像と実像』笠間書院、2016

(いずれも書誌情報のみ。Public-ready 昇格時に個別記述を原典照合する必要あり)

ランクC(Wikipedia、補助)

記事本文の基礎データ確認に使用。すべて 2026-04-22 にアクセスして検証済み:

ランクD(参考扱い)

  • 『太閤素生記』(1625、土屋知貞著)— 日吉丸等の通説の出所。伝承性が高く、補助的参照のみ

本記事で扱っていない論点

  • 秀吉の祖父・曽祖父世代(信頼できる資料が少なく割愛)
  • 秀吉の養子(多数)のうち、本記事に登場しない人物の詳細
  • 豊臣家臣団(加藤清正・福島正則ほか)
  • 朝鮮出兵の詳細
  • 豊臣一族の子孫説(国松薩摩逃亡説、秀頼遺児求厭説など)

最終更新: 2026-06-27T12:00:00+09:00