後北条氏(小田原北条氏)の家系図 — 戦国関東 100 年の覇者、5 代の興亡
家系図ずかん編集部 | 公開 2026-05-01 | Public-ready(★★★)
後北条氏は、戦国時代の関東を 5 代 100 年にわたって支配した戦国大名である。京都伊勢氏の出身伊勢盛時(北条早雲、出家後 宗瑞)が伊豆・相模を制圧して始まり、2 代氏綱の代に「北条」へ改姓し鎌倉北条氏(執権家)の権威継承を主張、3 代氏康は河越夜戦(1546)で関東管領両上杉を破り甲相駿三国同盟を主導し最盛期を築いた。4 代氏政・5 代氏直の代に最大版図 240 万石に達したが、1590 年の豊臣秀吉の小田原征伐で開城、氏政は切腹、氏直は高野山へ追放され滅亡した。家紋『三つ鱗』は鎌倉北条氏と同意匠で、その正統性継承を象徴する。本記事では伊勢盛時の出自から狭山藩主家としての存続までの 200 年を、5 代の物語と関東戦国史の文脈から解きほぐす。
概要 — 執権北条氏との違いを明示する
後北条氏とは(執権北条氏との混同回避)
「北条氏」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、源頼朝の妻・北条政子を生んだ鎌倉幕府の執権北条氏(時政・義時・泰時・時宗・高時の家系)であろう。だが本記事で扱う後北条氏は、それとはまったく別系統の戦国大名である。混同が頻繁に起きるため、まず両家の違いを整理する。
| 項目 | 鎌倉執権北条氏(hojo-shikken) | 後北条氏(本プリセット) |
|---|---|---|
| 家祖 | 北条時政(1138-1215) | 伊勢盛時(北条早雲、1456?-1519) |
| 出自 | 桓武平氏伊勢流・伊豆北条氏 | 桓武平氏(伊勢平氏)・京都伊勢氏(幕府政所執事) |
| 家紋 | 三つ鱗 | 三つ鱗(執権家の意匠を 1523 年頃に氏綱が借用) |
| 拠点 | 鎌倉 | 小田原 |
| 時代 | 鎌倉時代(1185-1333) | 戦国時代(1493-1590) |
| 主な事績 | 承久の乱・元寇 | 河越夜戦・甲相駿三国同盟・小田原征伐 |
| 滅亡 | 1333 年 | 1590 年 |
| 本記事との関係 | 血縁的にまったく無関係 | 後北条氏 2 代氏綱が「北条」改姓で鎌倉北条氏の権威を借用 |
つまり、後北条氏は鎌倉北条氏の末裔ではなく、約 300 年後の戦国時代に「北条」を新たに名乗った別家なのである。本記事の北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の 5 代は、鎌倉執権北条氏とは血の繋がりがまったくない。混同を避けるため、しばしば**「後北条氏」「小田原北条氏」**と呼び分けられる。家紋の三つ鱗、家名「北条」、拠点の関東という共通点は、後北条氏側の戦略的選択(権威継承の主張)であり、両家の同一性を示すものではない。
基礎データ
- 起源: 京都伊勢氏(室町幕府政所執事の名門)→ 駿河今川氏に仕官 → 伊豆・相模で独立大名化
- 時代: 1493 年(早雲の伊豆討入)〜 1590 年(小田原征伐)の 97 年間、5 代相続
- 拠点: 伊豆韮山城 → 相模小田原城(2 代氏綱以降)
- 家紋: 三つ鱗(執権北条氏と同意匠、1523 年頃から採用)
- 特徴的構造: 5 代当主すべてが直系男子相続、領国 240 万石、関八州の覇者
- 滅亡後: 5 代氏直の叔父・氏規流が江戸期に河内狭山藩 1 万 1,000 石として存続、12 代続いて幕末まで家名を残した
5 代の系譜概観
| 代 | 名前 | 生没 | 在任 | 主な事績 |
|---|---|---|---|---|
| 初代 | 北条早雲(伊勢盛時、宗瑞) | 1456?-1519 | 1493-1518 | 伊豆・相模征服、戦国大名の嚆矢 |
| 2 代 | 北条氏綱 | 1487-1541 | 1518-1541 | 「北条」改姓、武蔵進出、鶴岡八幡宮再建 |
| 3 代 | 北条氏康 | 1515-1571 | 1541-1571 | 河越夜戦、甲相駿三国同盟、領国経営 |
| 4 代 | 北条氏政 | 1538-1590 | 1571-1588 頃 | 越相同盟、最大版図、小田原評定 |
| 5 代 | 北条氏直 | 1562-1591 | 1588 頃-1590 | 小田原開城、高野山追放、男系断絶 |
5 代相続の 100 年は、戦国大名としての第一世代の成功例である。同じく戦国期に下剋上で身を起こした朝倉氏(5 代)・浅井氏(3 代)と並び、戦国大名の典型的な持続期間を示す。
代表人物
1. 北条早雲(伊勢盛時、1456?-1519) — 戦国大名の嚆矢
後北条氏の家祖、京都伊勢氏の出身。伊勢盛時を本名とし、出家後は早雲庵宗瑞を称した。「北条早雲」という名乗りは生前の本人が用いた史料はなく、子の氏綱が「北条」改姓した後に後世で遡及的に呼ばれるようになったもので、本来の名乗りは「伊勢盛時」「伊勢新九郎」「早雲庵宗瑞」である。
父は京都伊勢氏の伊勢盛定。京都伊勢氏は室町幕府政所執事を世襲する幕臣の名門であり、江戸期軍記物が描く「素浪人からの成り上がり」という早雲像は事実に反する。妹(あるいは姉)の北川殿が駿河今川義忠の妻となり今川氏親(後の戦国大名・今川義元の父)を産んだ縁で、義忠急死後の家督争いに介入するため駿河に下向、興国寺城(駿河東部)を与えられた。
1493 年(明応 2)、当時伊豆を支配していた堀越公方足利茶々丸(足利政知の子)を討って伊豆国を奪取した。これが戦国時代の関東における最初の下剋上として記録される。1495 年(明応 4)には大森氏の小田原城を奇襲で奪取(伝承では火牛戦法)、相模進出の足がかりとした。1516 年に相模国を統一、1518 年に嫡男氏綱に家督を譲り、翌 1519 年に伊豆韮山城で没した。
享年については 1432 年生説(享年 88)と 1456 年生説(享年 64)があり、池上裕子『北条早雲: 戦国大名の誕生』(吉川弘文館、2008)以降は後者が定説化している。家訓『早雲寺殿廿一箇条』(伊勢宗瑞公御書)は質素倹約・主従関係の心得を説く武家訓として後世まで広く読まれたが、成立期について後代仮託説もあり論争中。生前に「北条」を称した確実な史料はなく、北条姓は子の氏綱代から始まる。
2. 北条氏綱(1487-1541) — 「北条」改姓と関東進出
伊勢盛時(早雲)の嫡男、後北条氏 2 代。1518 年に父早雲から家督を譲られ伊豆・相模二国の支配を継承、翌 1519 年の早雲死去で名実ともに当主となった。
氏綱の代の最大の事績は、1523 年(大永 3)頃に行われた北条姓への改姓である。それまで氏綱は「伊勢氏綱」と名乗っていたが、関東進出にあたって鎌倉北条氏(執権家)の権威継承を公的に主張し、「北条氏綱」と称した。これは鎌倉以来の関東支配の正統性を関東武士に示すための戦略的改姓であり、家紋『三つ鱗』もこの時期から鎌倉北条氏のものを意識して採用された可能性が高い。ただし執権北条氏(伊豆北条氏)とは血縁的にまったく無関係で、純粋に政治的な権威借用であった。
軍事面では 1524 年(大永 4)に武蔵扇谷上杉氏から江戸城を奪取(高輪原の戦い)。1526 年(大永 6)には鶴岡八幡宮を再建した。この再建は関東統治者としての氏綱の象徴的事業で、源頼朝以来の関東武家の聖地を後北条氏が後見するというデモンストレーションでもあった。
1537-38 年の第一次国府台合戦で、安房里見氏・古河公方足利義明連合軍を破り、武蔵をほぼ平定。1541 年小田原で病没、享年 55。「勝って兜の緒を締めよ」の遺訓は氏綱の言とされ、後世武家訓として広く知られた。
3. 北条氏康(1515-1571) — 戦国屈指の名君
後北条氏 3 代、氏綱の嫡男。母は養殊院殿。1515 年小田原で生まれ、1541 年の父氏綱死去で 27 歳で家督を継いだ。氏康は戦国の名君ランキングで常に上位に挙げられ、武田信玄・上杉謙信と並ぶ「東国の三国志」の一翼を担った人物である。
河越夜戦(1546)— 関東支配の決定打
氏康の戦歴で最大の決戦は1546 年(天文 15)の河越夜戦である。武蔵河越城を扇谷上杉朝定・山内上杉憲政・古河公方足利晴氏の連合軍 8 万が包囲した状況で、氏康は 8,000 の手勢で夜陰に乗じて奇襲をかけ、扇谷上杉朝定を討ち取って関東管領両上杉氏を事実上崩壊させた。戦国 3 大奇襲(桶狭間・厳島と並ぶ)の一つに数えられ、これにより後北条氏は関東の覇者としての地位を確立した。
甲相駿三国同盟(1554)
1554 年(天文 23)、氏康は武田信玄・今川義元との間に甲相駿三国同盟を結んだ。氏康娘・早川殿が今川氏真正室、武田信玄娘・黄梅院が氏政正室、今川義元娘が氏政正室、と三家の嫡子に他二家の娘を娶らせる三重婚姻同盟であり、関東・甲信・東海の戦国大名間で最も大規模な同盟体制となった。これにより後北条氏は北方(関東管領上杉)に集中できる戦略的余裕を得た。
1561 年(永禄 4)、上杉謙信が関東管領就任直後に 10 万の軍勢で小田原城を攻撃したが、氏康は籠城戦で撃退。1568 年(永禄 11)、武田信玄の駿河侵攻により今川氏真が没落して三国同盟が崩壊、氏康は従来の敵である上杉謙信と越相同盟を結んで武田に対抗した。この一連の外交転換は、氏康が同時代の信玄・謙信と並ぶ第一級の戦国大名であった証である。
領国経営
軍事だけでなく内政でも氏康は卓越していた。検地・伝馬制度整備・小田原城下町の整備・分国法(『北条氏所領役帳』1559 年)など、戦国大名としての領国統治の典型を確立した。とくに『所領役帳』は同時代の戦国大名の中でも最も整備された家臣の知行高台帳で、近代研究で後北条氏領国経営の解明資料となっている。
1571 年(元亀 2)小田原で病没、享年 57。最大版図は伊豆・相模・武蔵・上野・下野の一部・上総・下総・駿河の一部に及び、これを息子氏政が継承することになる。
4. 北条氏政(1538-1590) — 暗愚像と再評価
後北条氏 4 代、氏康の嫡男。母は瑞渓院殿(今川義元妹)。1538 年小田原で生まれ、1571 年の父氏康死去で 33 歳で家督を継いだ。継承時の領国は約 240 万石、後北条氏として最大版図であった。
氏政の代の前期は氏康の遺策を継承し、上杉謙信と結んで武田信玄に対抗する越相同盟路線を推進した。1578 年(天正 6)、上杉謙信の急死後の家督争い(御館の乱)で、氏康の七男で謙信の養子となっていた弟・北条三郎(上杉景虎)の支援に介入したが、武田勝頼が上杉景勝側についたことで景虎は敗死、後北条氏は武田と決裂した。
1583 年頃に氏政は織田・徳川連合軍の威光のもと徳川家康と和睦、家康次女・督姫が嫡男氏直に嫁いで甲相同盟が成立した。1588 年頃には嫡男氏直に家督を譲り、自身は隠居の身となる。
暗愚像と近年の再評価
氏政について、戦国軍記物が伝える有名な逸話に「湯漬けの故事」がある。氏政が食事中に湯漬けに汁を二度かけたことを見た父氏康が「自分の食う飯の量も計れぬ者にどうして領国経営ができよう」と歎き、北条家の将来を悲観したという話で、氏政の暗愚像の根拠とされてきた。さらに信長が「箸の使い方も知らない田舎大名」と評したとも伝わる。
しかし黒田基樹『北条氏政: 戦国大名の典型』(平凡社、2015)以降の研究では、氏政期の所領役帳整備・大規模築城・小田原城下町整備など領国経営の堅実性が再評価されつつある。湯漬けの逸話自体が江戸期軍記物の創作で、氏政が「典型的な戦国大名」として 240 万石を統治したことが学術的には強調されている。
小田原評定と最期
1587 年に豊臣秀吉が九州を平定して全国統一目前となると、秀吉から上洛要求が繰り返し届いた。氏政・氏直父子はこれを拒否ないし引き延ばしを続け、1589 年(天正 17)11 月の名胡桃城事件(北条家臣猪俣邦憲が真田家領名胡桃城を奪取)が秀吉に小田原征伐の口実を与えた。
家中の重臣会議で開戦か降伏かをめぐり議論が長引いた故事から、後世**「小田原評定」**は重要事項決定の長引く会議の比喩として故事成語化された。
1590 年(天正 18)3 月から 7 月にかけての小田原征伐で 20 万の豊臣連合軍に小田原城を包囲され、3 ヶ月の籠城の末に 7 月 5 日に開城を決定。氏政は開城責任者として 7 月 11 日に弟の氏照とともに切腹した。享年 53。
5. 北条氏直(1562-1591) — 最後の当主
後北条氏 5 代、氏政嫡男。母は黄梅院(武田信玄娘)。1562 年小田原で生まれ、1583 年頃に徳川家康の次女・督姫を正室に迎えて甲相同盟を画した。1588 年頃に父氏政から家督を譲られ 5 代当主となり、1589 年からの秀吉との緊張高まりの渦中で実質的な対豊臣外交の責任者となった。
1590 年 3 月、豊臣秀吉が 20 万の連合軍を率いて小田原征伐を開始すると、氏直は父氏政・叔父氏照・諸城主とともに小田原城に籠城。3 ヶ月の籠城戦の末、7 月 5 日に開城を決定した。父氏政・叔父氏照は開城責任者として 7 月 11 日に切腹したが、氏直は徳川家康の娘婿という縁で助命され、出家のうえ高野山へ追放された。
翌 1591 年(天正 19)8 月、秀吉から赦免され河内国に 1 万石を与えられる予定であったが、その直前の 11 月 4 日に高野山で疱瘡(天然痘)にかかり病死した。享年 30。氏直には男子がなく、督姫との間に娘 2 人のみだったため、後北条氏本流の男系はここで断絶した。督姫はその後徳川家康の意向で池田輝政に再嫁、池田家姫路藩・岡山藩・鳥取藩の祖となる。
なお弟の氏房の子孫、および叔父氏規の系統が江戸期に旗本・狭山藩主家として後北条家の家名を残し、氏規の子・氏盛が河内狭山藩 1 万 1,000 石を立藩して幕末まで続いた(後述)。
歴史的背景
創始期(1493-1519) — 伊豆討入から戦国大名誕生へ
後北条氏の創始期は、京都伊勢氏出身の伊勢盛時(早雲)が 1493 年に伊豆国を奪取した瞬間から始まる。これは戦国時代の関東における最初の下剋上であり、室町幕府の権威が崩壊して大名が独立国家として立ち上がる戦国時代の到来を象徴する事件であった。同時代に近畿で起きた応仁の乱(1467-1477)と、関東で起きた長享の乱(1487-1505)の終息期に重なり、新興勢力が旧来の権威構造を超えて領国を獲得する構図が形成された。
早雲の出自について、江戸期軍記物が伝える「素浪人説」は近年の研究で否定され、京都伊勢氏という名門出身の駿河今川氏寄寓者として、姉妹の婚姻関係を活用して関東に進出した正統的な経歴を持つことが明らかになっている(池上裕子 2008)。これは「戦国大名は皆地下から出た成り上がり」というステレオタイプを覆す重要な事例で、戦国大名研究の一つの転換点となった。
発展期(1519-1571) — 氏綱・氏康による関東経略
2 代氏綱の代に、後北条氏は関東進出の戦略的基盤を完成させた。1523 年頃の北条姓改姓は単なる名前の変更ではなく、鎌倉北条氏の正統性を借用することで関東武士に対する支配の正当性を主張する政治宣伝であった。1526 年の鶴岡八幡宮再建は、源頼朝以来の関東武家政権の象徴を後北条氏が後見することで、執権北条氏の後継者を任じる象徴的事業であった。
3 代氏康の代に、後北条氏は関東の覇者としての地位を確立した。1546 年の河越夜戦は関東管領両上杉氏の事実上の崩壊を招いた決定的勝利で、これにより関東の旧秩序(関東管領 + 古河公方)は機能を失い、後北条氏が関東の実質的支配者となった。1554 年の甲相駿三国同盟と 1568 年の越相同盟への外交転換は、氏康が同時代の信玄・謙信と並ぶ戦国大名第一世代の中でも特に外交的柔軟性を持っていたことを示す。
最盛期(1571-1588) — 氏政期の最大版図
4 代氏政の代に、後北条氏は領国 240 万石という最大版図に達した。これは同時代の戦国大名の中でも最大級で、武田信玄期の甲斐・信濃・駿河・上野・遠江・三河の合計(約 130-150 万石)を超える規模であった。氏政期の領国経営は、氏康が築いた所領役帳・伝馬制度・小田原城下町の整備の上に立つ堅実なもので、近年の研究では暗愚像が見直されつつある。
しかし氏政期の課題は外交戦略の硬直であった。1582 年の織田信長による武田滅亡、1582 年の本能寺の変、1583 年の賤ヶ岳合戦と、織田・豊臣による中央統一が進む中で、後北条氏は当主交代(1588 年頃)と並行して関東での優勢を維持しようとしたが、秀吉の天下統一構想と正面衝突することになる。
終焉(1588-1590) — 小田原征伐と滅亡
1587 年の九州平定後、秀吉の全国統一の最終段階で、後北条氏は降伏を選ばず籠城戦を選んだ。1589 年 11 月の名胡桃城事件を口実に、1590 年 3 月から 7 月にかけて 20 万の豊臣連合軍が小田原を包囲、これに対して後北条氏は 8 万の兵力(伝承)で 3 ヶ月の籠城戦に挑んだ。
小田原籠城戦は、戦国時代における最大規模の包囲戦として知られる。秀吉軍は石垣山一夜城(小田原城を見下ろす位置に短期間で築いた砦)を築いて持久戦を演出し、後北条家臣の籠城疲れを誘った。並行して武蔵八王子城(氏照領)は前田利家・上杉景勝に攻略され、女子供を含む 1,000 人以上が殺戮された残虐戦として記録される。
7 月 5 日の開城決定後、氏政・氏照・松田憲秀・大道寺政繁ら開城責任者は切腹を命じられ、後北条氏の中核は完全に解体された。氏直は徳川家康の娘婿という立場で助命されたが、翌 1591 年に高野山で病死、男系断絶となった。
江戸期の継承(1591-1868) — 河内狭山藩主家としての存続
5 代氏直の死で本流は途絶えたが、後北条家は叔父氏規流が江戸期に大名家として存続した。氏規は伊豆韮山城主であり、対豊臣外交の窓口として秀吉・家康と直接交渉した経験を持っていた。1590 年の小田原征伐後、氏規は家康家臣となり、1591 年に河内国狭山に 1 万石を与えられた。氏規没後(1600 年)は子の氏盛が継承、関ヶ原合戦の戦功で加増され河内狭山藩 1 万 1,000 石を立藩した。
狭山藩主家は氏盛の子孫が代々相続し、12 代続いて 1869 年(明治 2)の版籍奉還まで存続した。江戸期の後北条家は小規模ながら、家紋『三つ鱗』を継承し、戦国大名後北条氏の家名を保ち続けた。明治期に華族として子爵を授与されたが、現代では一般家系となっている。
家紋『三つ鱗』
後北条氏の家紋は三つ鱗(みつうろこ)である。三角形(鱗)を 3 つ正三角形状に組み合わせた極めて単純な意匠で、図形紋に分類される。この家紋には鎌倉北条氏との関係という重要な歴史的意味がある。
鎌倉北条氏との同意匠
三つ鱗は本来、鎌倉幕府の執権北条氏(hojo-shikken)の家紋であった。鎌倉北条氏では北条時政以来、伝承として「江ノ島弁財天の使いが三鱗を授けた」という伝説を持ち、家祖の権威を象徴する紋として使われてきた。
戦国期の後北条氏が三つ鱗を採用したのは、2 代氏綱の「北条」改姓(1523 年頃)に伴うものとされる。これは家名の改姓と家紋の採用がセットになっており、鎌倉北条氏の権威継承を公的に主張する政治的演出であった。家紋『三つ鱗』を関東武士の前に掲げることで、後北条氏は「関東支配の正統性は鎌倉以来の北条氏に立つ」と訴えたのである。
ただし血縁的にはまったく無関係であり、家紋の同一性は権威借用の戦略的選択であって、両家の同一性を意味しない。これは戦国期によく見られた家紋の流用例の一つで、上杉謙信の「上杉」継承(長尾氏 → 関東管領上杉憲政の養子)と並ぶ著名な事例である。
バリエーション
後北条氏の三つ鱗には以下のバリエーションが知られる:
- 三つ鱗: 基本形
- 北条鱗: 三つ鱗を強調した呼称
- 三鱗紋: 学術的呼称
家紋の使用は本家(小田原)と分家(鉢形・八王子・玉縄等)でほぼ統一されており、後北条家中の結束を象徴する意匠として機能した。後北条氏滅亡後、河内狭山藩でも継承されたが、江戸期には鎌倉北条氏のものとの混同を避けて一部装飾を変えるなど工夫された。家紋は家紋 Pillarに詳述される図形紋の代表例の一つである。
関連する家系図
戦国時代の同時代家
- 武田家(甲斐武田氏) — 1554 年の甲相駿三国同盟で武田信玄娘・黄梅院が氏政正室となり、1568 年の駿河侵攻で同盟が破綻。1577 年に氏政娘が武田勝頼の継室に
- 上杉家 — 上杉謙信が 1561 年小田原城攻撃、1569 年越相同盟で氏康七男・北条三郎が謙信養子(上杉景虎)に。1578 年御館の乱で景虎敗死
- 今川家研究ノート(戦国その他) — 早雲の姉妹が今川氏親母、氏康妻が今川義元妹(瑞渓院殿)、氏康娘・早川殿が今川氏真室。後北条氏と今川氏の二重三重の姻戚
滅亡を画した相手
- 豊臣家 — 1590 年の小田原征伐で豊臣秀吉軍 20 万に小田原城を包囲され滅亡
- 徳川将軍家 — 徳川家康の次女・督姫が氏直正室、家康娘婿として氏直は助命。氏規流が江戸期に河内狭山藩主家として存続
- 真田家 — 1589 年の名胡桃城事件で真田昌幸の名胡桃城を北条家臣が奪取、これが小田原征伐の口実に
混同回避のための関連先
- 執権北条氏(鎌倉幕府執権家) — 後北条氏とは家祖・系統がまったく別系統。鎌倉時代の執権北条氏は伊豆北条氏出身、後北条氏は京都伊勢氏出身。両者は約 300 年の時代差があり血縁的繋がりはない。家紋『三つ鱗』の同意匠と「北条」家名の共通点は、後北条氏 2 代氏綱が 1523 年頃に権威継承を主張して借用したものに過ぎない
Pillar・Ranking
出典・参考文献
ランク A(一次資料・公式)
- Wikidata (CC0): 後北条氏 5 代当主の Qid を 2026-05-01 に実地確認(早雲 Q297023、氏綱 Q11481817、氏康 Q694055、氏政 Q11480817、氏直 Q11480826)
- 小田原北条記(17 世紀成立): 後北条氏顛末記。江戸期の後北条氏像形成の基本史料
- 北条五代記(三浦浄心、1641 年): 後北条 5 代の事跡。江戸初期成立、家臣家伝聞を含む
- 北条氏所領役帳(1559 年): 氏康代の領国経営を示す一次史料の代表
ランク B(学術書)
- 黒田基樹編『戦国北条氏一族人物事典』戎光祥出版, 2018(ISBN 978-4-86403-294-6): 後北条氏一族人物事典の決定版、verified
- 黒田基樹『北条氏康: 関東に覇を唱えた戦国大名』平凡社, 2005: 河越夜戦・三国同盟・領国経営の標準的評伝
- 黒田基樹『北条氏政: 戦国大名の典型』平凡社, 2015: 4 代氏政の暗愚像見直しを含む近年研究
- 下山治久『小田原合戦と北条氏』吉川弘文館, 2013: 1590 年小田原征伐の標準書
- 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版, 2006: 家臣 2,000 人以上を網羅
- 池上裕子『北条早雲: 戦国大名の誕生』吉川弘文館, 2008: 1456 年生説・京都伊勢氏出身説を確立した近年研究
ランク C(一般書・百科)
- Wikipedia「後北条氏」「北条早雲」「小田原征伐」「河越城の戦い」(2026-05-01 verified)
- コトバンク「後北条氏」「北条早雲」「小田原征伐」(ブリタニカ国際大百科事典・日本大百科全書)
改訂履歴
- 2026-05-01: 初版公開(Public-ready、Wave A1-10)。深掘り研究ノート
research-notes/deep/go-hojo.mdを基に作成。執権北条氏との混同回避を全 person・冒頭概要で明記
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最終更新: 2026-05-01 執筆: 家系図ずかん編集部 品質: Public-ready ★★★