信虎が甲斐をまとめ、信玄が領国を広げる
信虎の甲斐統一を土台に、信玄が信濃・駿河へ勢力を伸ばします。
武田家は信玄の強さだけでなく、義信廃嫡、勝頼継承、長篠から甲州征伐、そして娘たちの婚姻で次代へ残る流れで見ると理解しやすくなります。
信玄の拡大から勝頼の滅亡、娘たちの婚姻へ続く甲斐武田
最初に見るところ
信虎の甲斐統一を土台に、信玄が信濃・駿河へ勢力を伸ばします。
嫡男義信を失い、諏訪系の勝頼が武田家の後継軸になります。
信玄死後の勝頼期に織田・徳川と対立し、1582年に滅亡します。
関係をしぼって見る
甲斐統一と信玄世代の土台。
信玄が領国を拡大し、武田家の全盛期を作る。
義信廃嫡後、勝頼と兄弟が後継を支える。
北条・徳川・上杉・織田へ接続する。
甲州征伐で天目山へ追い込まれる。
系図でひと目でたどる
家系図を時間で読む
若い信虎が家督を継ぎ、甲斐統一へ進む。
信玄が父信虎を追放し、武田家の中心になる。
武田・北条・今川の婚姻同盟が成立する。
嫡男義信の廃嫡で後継構想が変わる。
勝頼が武田家を継ぐが、重い戦線を背負う。
織田・徳川連合軍に敗れ、武田の軍事力が大きく削られる。
甲州征伐で勝頼・信勝が自害し甲斐武田氏が滅亡する。
まず覚える人だけ
武田信虎1494-1574土台甲斐統一を進めた信玄の父。
武田信玄1521-1573全盛甲斐武田氏を戦国最強級に押し上げた中心人物。
武田義信1538-1567廃嫡信玄の嫡男。義信事件で後継構想が崩れる。
武田勝頼1546-1582滅亡信玄死後を継ぎ、天目山で武田家の終焉を迎える。
仁科盛信1557-1582防衛高遠城で最後まで抵抗した信玄の子。
黄梅院1543-1569北条接続北条氏政正室として甲相駿三国同盟を支えた。
見性院1545-1622徳川接続徳川に庇護され、保科正之の養育にも関わる。
菊姫1558-1604上杉接続甲越同盟で上杉景勝正室となった。
全体像をもう少し見る
武田家は信玄の軍事力で語られがちですが、義信廃嫡と勝頼継承が後の弱点になります。
黄梅院、見性院、菊姫、松姫を見ると、武田家が北条・徳川・上杉・織田へ広く接続していたことが分かります。
甲斐武田氏は滅びますが、娘たちの婚姻や保科正之の養育を通じて江戸期へ余波が残ります。
短く読む
武田信虎が甲斐統一を進め、信玄世代の土台を作りました。
信玄は父を追放して家督を継ぎ、信濃・駿河方面へ領国を広げます。
義信廃嫡後、勝頼が武田家を継ぎますが、長篠の敗戦で勢いを失います。
1582年、織田信忠の甲州征伐で勝頼は天目山に追い込まれ、甲斐武田氏は滅亡しました。
出典をたどって深く読む
甲斐源氏の嫡流として鎌倉時代から甲斐国を領し続けた武門。戦国期に武田信虎が甲斐を統一、その子・信玄が父を追放して家督を継ぎ、信濃・駿河・上野にまで領国を広げて「戦国最強」と称された。しかし信玄死去(1573)後を継いだ勝頼は長篠の戦い(1575)で織田・徳川連合軍に敗北、1582 年の甲州征伐で天目山に追い詰められ自害。甲斐武田氏の男系はここで絶えた。一方、信玄の娘・見性院が徳川秀忠の庶子・保科正之を養育したことで、武田の血筋は会津松平家を通じて江戸期に流れ込んだ。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 一族名 | 武田家(甲斐武田氏) |
| 起源 | 清和源氏甲斐源氏の嫡流、武田信義を祖とする |
| 台頭期 | 1507 年(信虎家督)〜 1582 年(甲州征伐で滅亡) |
| 主な拠点 | 躑躅ヶ崎館(甲府)→ 新府城(韮崎) |
| 家紋 | 武田菱(四つ割菱) |
| 歴史的役割 | 戦国末期の最強武力、川中島・長篠・甲州征伐の歴史的戦役の主役 |
武田氏は清和源氏の嫡流で、源頼朝挙兵時に活躍した武田信義を祖とする。以来、甲斐国守護として鎌倉・室町期を生き抜いた名族。戦国期に入り、武田信虎が甲斐国内の国人衆を統一し、1518 年に守護所を甲府へ移し、翌 1519 年に躑躅ヶ崎館を築いて武田家の基礎を固めた。
武田信玄(1521-1573)は 1541 年に父信虎を駿河へ追放するクーデターで家督を相続(21 歳)。信濃を平定し、上杉謙信との川中島の戦い(1553-1564、5 回)、駿河侵攻(1568)、西上作戦(1572-1573)と戦線を拡大。領国は甲斐・信濃・駿河・上野西部・遠江・三河・飛騨・越中の一部に及び、「戦国最強」と称された。しかし 1573 年 4 月、上洛途上の信濃駒場で病没。享年 53。
後継の勝頼は 1575 年長篠の戦いで織田・徳川連合軍の鉄砲隊に敗れ、武田氏は衰退に向かった。1582 年、織田信忠率いる甲州征伐で重臣・穴山信君(梅雪)らの離反を受け、甲斐天目山田野で妻子・信勝と自害。甲斐武田氏 19 代、約 400 年の歴史に幕。
本記事では 5 名を代表として紹介する。
武田信虎の次男(実質的嫡男)として甲斐要害山城で誕生、幼名は太郎。14 歳で元服し将軍足利義晴の偏諱を受けて晴信を名乗った。1541 年、父信虎が駿河に出かけた隙に重臣・板垣信方・甘利虎泰と計って父を駿河へ追放する非常手段で家督を継承(21 歳)。
信濃平定に 30 年近くを費やし、途中で上杉謙信と川中島の戦いを 5 度戦う(1553-1564)。1568 年に駿河を今川氏から奪い、1572 年には西上作戦を開始。三方ヶ原の戦いで徳川家康を撃破し、織田信長との決戦が目前と迫る中、病を発して1573 年 4 月、信濃駒場で没した。享年 53。菩提寺は甲州市の恵林寺で、戒名は恵林寺殿機山玄公大居士(法名は法性院機山信玄。在世の道号・軒号に機山・徳栄軒があり、「法性院機山徳栄軒信玄」とも記される)。「風林火山」の軍旗、「甲州法度」の分国法、信玄堤(治水工事)、金山経営など、戦国大名の統治モデルとしても先駆的だった。
武田信玄の四男。母は諏訪御料人(諏訪頼重の娘)。当初は諏訪家を継ぎ「諏訪四郎勝頼」として高遠城主を務めた。兄・義信の廃嫡(1565)と父信玄の死(1573)により武田家の家督を継承する。
1575 年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍 3.8 万に対し、武田軍は 1.5 万で戦いを挑み、織田方の鉄砲隊の前に重臣・山県昌景・馬場信春・内藤昌豊らを失う壊滅的敗北を喫した。以後、武田氏は衰退の一途を辿り、1582 年の織田信忠率いる甲州征伐で重臣・穴山信君、一門の木曽義昌らの離反を受け、新府城を自焼して逃走、甲斐天目山田野で妻子・信勝とともに自害した。享年 37。
再評価: 江戸期までは「家を滅ぼした暗愚の将」評だったが、近年の研究では外交政策や内政の実績(北条との同盟・上杉との甲越同盟・新府城築城など)が再評価されている。
武田信縄の嫡男、信玄の父。14 歳で家督を継ぎ、甲斐国内の国人衆を討平して甲斐統一を成し遂げた。1518 年に守護所を甲府へ移し、翌 1519 年に躑躅ヶ崎館を築いて甲府の町の基礎を築く。積極的な外交で両上杉氏と同盟し、今川氏・諏訪氏とも姻戚関係を結んだ。
しかし 1541 年、信濃出陣から甲府に戻る途上、嫡男晴信(信玄)のクーデターで駿河へ追放された。以後、今川義元のもとで「御舅殿」と遇され、義元死後は京都で幕府に仕え、1574 年に信濃高遠で 81 歳で没す。信虎の生涯は長寿(当時の平均寿命を大きく超える)でも異例だった。
信玄の同母弟。父信虎は次男の信繁を寵愛し、兄弟間の家督争いが予想されたが、信繁は信玄のクーデターを支持し、以後献身的に副将を務めた。1558 年に作った 『武田信繁家訓』99 ヶ条 は、「まことの武将」の指針として江戸期を通じて武士の必読書となった。
1561 年、第 4 次川中島の戦いで武田軍は本陣が上杉軍に急襲され、信繁は兄信玄を守るため反転して奮戦、討死した。享年 37。信玄は弟の遺体を抱いて号泣したと伝わる。敵将・上杉輝虎(謙信)からもその死は惜しまれた。
武田信玄の次女、母は三条の方。武田一門の穴山信君(梅雪)の正室。夫信君は 1582 年の武田滅亡時に信長に降伏、徳川家康とともに本能寺の変の直後に京都で土民に襲われて落命した。
その後見性院は徳川家康に庇護され、徳川 2 代将軍秀忠の庶子・幸松(後の保科正之、1611 年生)を、1613 年春から武蔵江戸の田安屋敷で養育した。1617 年、幸松は信濃高遠藩主・保科正光の養子となり、後に会津 23 万石を与えられて会津松平家の祖となる。つまり武田の血は見性院を介して会津藩主家に流れ込んだ。享年 78 前後。
信玄の父・信虎は 11 人以上の男子をもうけ、そのほとんどが武田家を支える武将となった。
「武田二十四将」と後世呼ばれる精鋭の多くは信玄の家臣団で、山県昌景・馬場信春・高坂昌信・内藤昌豊・飯富虎昌ら。長篠の戦いで大半が戦死した。
信玄は 11 人以上の子女をもうけ、戦国期の典型的な政略結婚の網を張った。
| 子 | 相手 | 結果 |
|---|---|---|
| 黄梅院(長女) | 北条氏政(後北条氏) | 甲相駿三国同盟、駿河侵攻で破綻 |
| 義信(嫡男) | 嶺松院(今川義元娘) | 今川との同盟、義信事件で破綻 |
| 見性院(次女) | 穴山信君(武田一門) | 穴山家→保科正之養育→会津松平家 |
| 勝頼(四男) | 龍勝院(織田信長姪) | 織田との同盟。龍勝院は信勝出産後夭折 |
| 勝頼(四男、継室) | 北条夫人(北条氏政娘) | 甲相同盟 1577 |
| 仁科盛信(五男) | 仁科家(信濃国人) | 信濃懐柔、高遠城主 |
| 松姫(六女) | 織田信忠(信長嫡男) | 甲斐織田同盟、1572 年破棄 |
| 菊姫 | 上杉景勝(越後) | 甲越同盟 1579 |
| 真理姫 | 木曽義昌(信濃) | 甲州征伐で義昌離反 |
外交政策の変転に応じて、これらの婚姻は結ばれては切られた。信玄の姻戚網は戦国期の複雑な勢力関係をそのまま映している。
徳川家康の三河長篠城を救援するため出陣した勝頼の武田軍 15,000 と、織田信長・家康連合軍 38,000 が設楽原で対峙した。織田方の鉄砲隊(千挺〜三千挺と諸説あり)と馬防柵の前に、武田の騎馬軍団は突撃を繰り返して壊滅。山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・真田信綱など武田二十四将の多くが戦死した。この戦いで武田家の軍事的核が失われた。
1582 年 1 月、勝頼の従弟木曽義昌が織田方に寝返り、続いて一門の穴山信君(梅雪)も織田・徳川方に降伏。織田信忠率いる 5 万の軍勢が甲斐・信濃に侵攻した。
こうして甲斐武田氏は信義以来約 400 年の歴史を閉じた。
つまり武田の血は、会津藩主家・旗本家など複数の経路で江戸時代を生き延びた。
武田氏の家紋は武田菱(四つ割菱)。4 つの菱形を組み合わせた意匠で、「割菱」とも呼ばれる。甲斐源氏の嫡流の証として、鎌倉期から代々受け継がれた。
信玄の軍旗「風林火山」(疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山、孫子兵法に由来)は、武田菱と並ぶ武田家の象徴。現代でも山梨県や武田氏ゆかりの神社(武田神社、甲府市)で使われ、山梨の県紋は武田菱に甲斐国の山をあしらったデザイン。
(書誌情報のみ。Public-ready 昇格時に原典照合予定)