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戦国大名戦国時代〜江戸時代

上杉家(越後長尾〜米沢上杉)

上杉家は謙信の武名だけでなく、御館の乱、関ヶ原後の減封、米沢藩としての存続、鷹山の改革まで長く続く家として見ると流れがつかめます。

謙信の越後から、景勝の米沢、鷹山の改革へ続く家

主要人物 8越後長尾から米沢上杉へ出典は下部に整理

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最初に見るところ

流れで見る

1

長尾景虎が上杉姓と関東管領を継ぐ

越後守護代長尾氏から、謙信が上杉家の名跡を受け継ぎます。

2

御館の乱で景勝が家を継ぐ

謙信の急死後、景勝と景虎が争い、景勝が上杉家を継承します。

3

会津から米沢へ減封されても残る

関ヶ原後に大幅減封されますが、米沢藩として存続し鷹山へ続きます。

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家の流れ

長尾
長尾為景長尾晴景上杉謙信

越後守護代長尾氏から謙信が出る。

上杉
上杉憲政上杉謙信

関東管領と上杉姓を継承する。

御館
上杉景勝上杉景虎菊姫

養子同士の後継争いと甲越同盟。

米沢
上杉定勝上杉綱勝上杉綱憲

減封後の米沢藩をつなぐ。

改革
上杉重定上杉鷹山

藩財政危機から改革へ進む。

系図でひと目でたどる

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家系図
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祖先子孫
長尾 為景虎御前仙桃院長尾 政景上杉 景勝上杉 景虎菊姫清円院上杉 定勝清円院仙桃院
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上杉家(越後長尾〜米沢上杉) の家系図(テキスト要約・11人)

  • 長尾為景(1486–1543)、配偶者: 虎御前
  • 虎御前(1504–1528)、配偶者: 長尾為景
  • 仙桃院(1528–1609)、親: 長尾為景・虎御前、配偶者: 長尾政景
  • 長尾政景(1526–1564)、配偶者: 仙桃院
  • 上杉景勝(1556–1623)、親: 長尾政景・仙桃院・仙桃院、配偶者: 菊姫
  • 上杉景虎(1554–1579)、配偶者: 清円院
  • 菊姫(1558–1604)、配偶者: 上杉景勝
  • 清円院(1574–1604)、配偶者: 上杉景勝
  • 上杉定勝(1604–1645)、親: 上杉景勝・清円院
  • 清円院(1556–1579)、親: 長尾政景・仙桃院、配偶者: 上杉景虎
  • 仙桃院(1524–1609)、親: 長尾為景・虎御前、配偶者: 長尾政景
線の見方丸=人物(写真または頭文字)。生没年は名前の下に表示。

上杉家(越後長尾〜米沢上杉)は見方の参考として眺められます。 自分の家族の家系図は、空のテンプレートから作れます。

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ざっくり年表

人物の時間軸

長尾為景 1486-1543土台
死去
上杉謙信 1530-1578越後の龍
上杉死去
上杉景勝 1556-1623米沢の祖
死去
上杉景虎 1554-1579御館
死去
菊姫 1558-1604武田接続
死去
上杉定勝 1604-1645米沢継承
死去
上杉綱憲 1663-1704存続
死去
上杉鷹山 1751-1822改革
死去
  1. 1548景虎家督

    長尾景虎が兄晴景から家督を譲られる。

  2. 1561上杉継承

    上杉憲政から関東管領と上杉姓を受ける。

  3. 1561川中島

    武田信玄との対決が上杉家の武名を高める。

  4. 1578御館の乱

    謙信急死後、景勝と景虎が後継を争う。

  5. 1600関ヶ原

    西軍側となり、会津120万石から米沢30万石へ減封される。

  6. 1664改易危機

    綱勝急死で断絶危機となるが、綱憲養子で存続する。

  7. 1767鷹山改革

    鷹山が藩主となり、米沢藩改革を進める。

まず覚える人だけ

主要人物

  • 長尾為景長尾為景1486-1543土台

    謙信の父で越後長尾氏の実力を高めた。

  • 上杉謙信上杉謙信1530-1578越後の龍

    上杉姓と関東管領を継ぎ、武田信玄と対決した中心人物。

  • 上杉景勝上杉景勝1556-1623米沢の祖

    御館の乱に勝ち、関ヶ原後は米沢へ減封される。

  • 上杉景虎上杉景虎1554-1579御館

    北条氏康の子で謙信養子。御館の乱で敗れる。

  • 菊姫菊姫1558-1604武田接続

    武田信玄の娘。甲越同盟で景勝正室となる。

  • 上杉定勝上杉定勝1604-1645米沢継承

    米沢藩2代として減封後の家を継ぐ。

  • 上杉綱憲上杉綱憲1663-1704存続

    綱勝急死後、養子として上杉家を存続させる。

  • 上杉鷹山上杉鷹山1751-1822改革

    米沢藩改革で知られる名君。

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もっと詳しく

謙信後の後継争いが大きい

謙信に実子がなく、景勝と景虎の御館の乱が上杉家の流れを決めました。

減封後も米沢で続く

関ヶ原後に大幅減封されますが、家そのものは米沢藩として続きました。

鷹山で家の印象が変わる

戦国武将の家という印象に加え、鷹山の改革で江戸期の名君の家としても知られます。

短く読む

謙信から鷹山までを読む

謙信が上杉を継ぐ

長尾景虎は上杉憲政から上杉姓と関東管領を受け、上杉謙信となりました。

御館の乱で景勝が残る

謙信急死後、景勝と景虎が争い、景勝が家督を継ぎます。

関ヶ原で米沢へ移る

景勝は関ヶ原で西軍側となり、会津から米沢へ大きく減封されました。

鷹山が米沢を改革する

江戸後期には上杉鷹山が藩政改革を進め、米沢上杉家の名を高めました。

出典をたどって深く読む

上杉家(越後長尾〜米沢上杉)をさらに詳しく

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越後守護代・長尾氏から興り、長尾景虎(上杉謙信)が関東管領・上杉憲政から上杉姓を継承して戦国大名・上杉家となった一族。謙信は武田信玄との川中島の戦いで「越後の龍」と称され、生涯独身を貫いた。謙信の急死後に起きた御館の乱で甥の景勝が養子・景虎を破って家督を継ぎ、秀吉政権下で五大老の一人に。関ヶ原敗戦で会津 120 万石から米沢 30 万石に減封されるも米沢藩として存続、9 代鷹山は「三百諸侯第一の賢君」と称された藩政改革の名君として知られる。戦国から明治まで 300 年以上、名族の血を保った希有な一族。

概要

項目内容
一族名上杉家(越後長尾→関東管領山内上杉→米沢上杉)
起源公家・勧修寺流藤原氏支流(上杉氏)、越後守護代長尾氏
戦国期拠点春日山城(越後、1474-1598)
江戸期拠点米沢城(出羽国置賜郡、1601-1871)
家紋上杉笹(竹に雀)
石高越後 60 万石 → 会津 120 万石 → 米沢 30 万石 → 15 万石
歴史的役割川中島の宿敵、御館の乱、五大老、米沢藩藩政改革

上杉氏は本来、公家・勧修寺流藤原氏の支流で、南北朝期に武家化した関東管領山内上杉家が関東八ヶ国を支配した。戦国期に北条氏の攻勢で衰え、1552 年に山内上杉憲政が越後守護代・長尾景虎を頼って越後に逃れ、1561 年に関東管領職と上杉姓を景虎に譲渡した。これが戦国大名としての上杉氏の成立である。

景虎=上杉謙信は武田信玄と川中島の戦い(1553-1564、5 次)、織田・北条とも対戦し、「越後の龍」と称された。しかし生涯未婚・実子なし(生涯不犯)で、甥の景勝と北条氏康の子景虎の 2 人を養子とした。1578 年の謙信急死後、2 人の間で御館の乱(1578-1579)が勃発、景勝が勝利して上杉家当主となった。

秀吉政権下で景勝は五大老の一人となり会津 120 万石を領したが、1600 年の関ヶ原で西軍に与し、敗戦で米沢 30 万石(後に 15 万石)へ大減封された。しかし米沢藩として江戸時代を生き延び、18 世紀後半に 9 代鷹山が破綻寸前の藩財政を再建、「三百諸侯第一の賢君」と称賛された。明治維新後は伯爵として華族に列した。


代表人物

本記事では 5 名を代表として紹介する。

1. 上杉謙信(1530-1578)— 越後の龍、生涯不犯の武将

越後守護代・長尾為景の四男、母は虎御前(青岩院)。幼名虎千代。1543 年に元服して長尾景虎を名乗る。1548 年、病弱な兄・晴景から 19 歳で家督を譲られ春日山城主となった。

1553 年から武田信玄川中島の戦いを開始、5 度にわたる死闘は戦国史屈指の名勝負となった。1561 年、北条氏に圧迫されて越後に逃れた関東管領・上杉憲政から関東管領職と上杉姓を継承し、以後「上杉政虎」「上杉輝虎」と改名、出家後は法号の「謙信」で知られる。

毘沙門天信仰に篤く「義」を掲げた戦いを展開したと伝わり、生涯独身・実子なし(生涯不犯)を貫いた。1577 年の手取川の戦いで織田軍を破り、上洛を目前にしていた 1578 年 3 月 13 日、春日山城で急死した(死因は脳溢血が有力とされるが、胃の病・急性膵炎など諸説ある)。享年 49。

2. 上杉景勝(1556-1623)— 御館の乱勝者、五大老、米沢藩祖

謙信の甥(姉仙桃院と長尾政景の子)。1564 年に父政景が溺死すると、伯父謙信の保護下で育ち、やがて養子に。1578 年の謙信急死で御館の乱(後述)が勃発し、もう一人の養子・景虎を破って家督を継いだ。

秀吉政権下で五大老(家康・利家・輝元・秀家とともに)となり、会津120 万石を領したが、1600 年の関ヶ原で石田三成ら西軍に与し、家老直江兼続の「直江状」で徳川家康を挑発。敗戦の結果、米沢 30 万石に大減封された。以後は徳川幕府に忠実に仕え、1623 年に米沢で 69 歳で没す。米沢藩 270 年の祖

3. 上杉景虎(1554-1579)— 御館の乱の悲劇の敗者

北条氏康の七男。1569 年の越相同盟(上杉・北条の和睦)を背景に、翌 1570 年(永禄 13)に越後へ入って謙信の養子となった。謙信から旧名「景虎」を下賜される厚遇を受け、謙信の姪(仙桃院の娘、華姫とも伝わる)と婚姻した。

1578 年の謙信急死後、同じ養子の景勝と御館の乱で家督を争うも敗北。翌 1579 年、逃亡中の越後鮫ヶ尾城で堀江宗親の裏切りに遭い自害、享年 26。謙信の寵愛を受けながら悲劇的な最期を遂げた美男子として、後世に語り継がれる。

4. 上杉鷹山(1751-1822)— なせば成る、中興の祖

日向高鍋藩主・秋月種美の次男として江戸で誕生。幼名松三郎。母方の祖母が 4 代綱憲の娘にあたり、鷹山自身も上杉の血を引いていた。1760 年、10 歳で米沢藩主・上杉重定の養子となり、1767 年 17 歳で藩主に就任(上杉治憲)。藩財政は借財 20 万両で破綻寸前だった。

鷹山は徹底した倹約(江戸仕切料を 1500 両→209 両に削減)、殖産興業(漆・桑・紅花・米沢織)、藩校興譲館再興天明の大飢饉対策で藩を再建。1785 年に隠居し「鷹山」を号した。松平定信から「三百諸侯第一の賢君」と称賛され、名言「なせば成る なさねば成らぬ 何事も なさぬは人の なさぬなりけり」で知られる。明治期に内村鑑三『代表的日本人』に収録され、J.F. ケネディが最も尊敬する日本人と語ったとも伝わる(真偽諸説)。享年 72。

5. 仙桃院(1528 頃 -1609)— 戦国を見届けた姉

長尾為景の娘、謙信の姉。越後上田長尾氏・長尾政景に嫁ぎ、上杉景勝を産んだ。1564 年に夫政景が溺死した後は弟謙信の庇護下で景勝を養育。謙信死後の御館の乱で景勝を支え、秀吉政権下の米沢移封までを見届けた。享年 82 前後、戦国の混乱から江戸初期までを生き抜いた女性。


御館の乱 — 兄弟養子の家督争い

1578 年 3 月、上杉謙信急死は上杉家に後継問題を突きつけた。謙信には 4 人の養子(景勝・景虎・畠山義春・山浦景国)がいたが、主要な候補は景勝(姉仙桃院の子)と景虎(北条氏康の子)の 2 人。

対立の構図

  • 景勝派: 譜代家臣団の多数、越後本国の武士
  • 景虎派: 実家・北条氏の後援、上杉憲政、武田勝頼(当初、景勝姉の婚姻関係で)

経過

  • 1578 年 5 月: 景勝が先手を打って春日山城本丸を制圧
  • 6 月: 景虎は御館(上杉憲政の居館)に入り籠城
  • 1579 年 2 月: 武田勝頼が景勝と和議(黄金調達・勝頼妹を景勝継室に送る密約)、景虎方から離反
  • 3 月 17 日: 御館落城、景虎は鮫ヶ尾城へ逃亡
  • 3 月 24 日: 堀江宗親の裏切りで景虎自害、享年 26

この戦いで上杉憲政も、景虎の嫡男・道満丸とともに和睦交渉に向かう途上で景勝方に討たれた。景勝が勝利し、上杉家当主となる。1 年以上の内戦で上杉家の国力は大きく削がれたが、武田勝頼との和議の中で甲越同盟が成立し、戦後の 1579 年 7 月に勝頼の妹・菊姫が景勝に輿入れして再建を図った。


米沢藩の歴代と赤穂事件

関ヶ原敗戦で 120 万石から 30 万石へ減封された米沢藩は、さらに試練を重ねる。

歴代当主

当主在職出自・備考
初代景勝1601-1623秀吉五大老、関ヶ原敗戦で減封
2 代定勝1623-1645景勝側室清円院所生
3 代綱勝1645-166426 歳で急死、嫡子なし
4 代綱憲1664-1704吉良義央の実子(綱勝妹・富子の子)、15 万石に半知減封
5 代吉憲1704-1722
6 代宗憲
7 代宗房
8 代重定1750-1767藩財政破綻、藩返上を検討
9 代鷹山(治憲)1767-1785秋月家より養子、中興の祖
10 代治広1785-1812重定の実子、鷹山が「養父」扱いで家督を譲る

赤穂事件と上杉家

4 代綱憲の実父は吉良義央(上野介)。1701 年の松の廊下事件で浅野内匠頭が義央を刃傷、1702 年 12 月 14 日の赤穂浪士討ち入りで義央が討たれた。

米沢藩主の綱憲は実父の救援を望んだが、幕府の警戒もあり米沢藩は動かず、義央は討たれるに至った。この事件は実父を失った綱憲に生涯の痛手を残したと伝わる。米沢藩と赤穂事件の意外なつながりである。

明治以降

1869 年の版籍奉還で米沢藩は廃され、13 代茂憲が最後の藩主となった(米沢藩主は初代景勝から数えて 13 代)。茂憲は第 2 代沖縄県令も務め、1884 年の華族令で伯爵に叙せられた。現在も上杉家は米沢市の上杉神社上杉家廟所を中心に、地域の文化遺産として保存・継承されている。


家紋「上杉笹(竹に雀)」

上杉氏の家紋は竹に飛び雀上杉笹・上杉雀)。2 本の竹の間に向かい合った 2 羽の雀を配した意匠で、公家・勧修寺流藤原氏の支流である上杉家が代々用いた。

武門に入ってからも家紋は変わらず、関東管領山内上杉家・扇谷上杉家・越後長尾系上杉家・米沢上杉家で同じ紋を使用。米沢藩の藩旗や藩士の印にも用いられ、現代でも米沢市の市章や山形県紋の一部にあしらわれる。


出典・参考文献

ランクA

  • Wikidata: 上杉家関連 10 名の Q 番号・基本プロパティを 2026-04-22 に実地確認(CC0、verified: true)
  • 『上杉家御年譜』 米沢藩編纂、1800 年頃成立 — 米沢藩公式編纂の系譜(書誌のみ)

ランクB

  • 山田邦明『上杉謙信』吉川弘文館、2020
  • 童門冬二『上杉鷹山』PHP 文庫

ランクC(Wikipedia、全て 2026-04-22 確認)


最終更新: 2026-06-21T12:00:00+09:00