長尾景虎が上杉姓と関東管領を継ぐ
越後守護代長尾氏から、謙信が上杉家の名跡を受け継ぎます。
上杉家は謙信の武名だけでなく、御館の乱、関ヶ原後の減封、米沢藩としての存続、鷹山の改革まで長く続く家として見ると流れがつかめます。
謙信の越後から、景勝の米沢、鷹山の改革へ続く家
最初に見るところ
越後守護代長尾氏から、謙信が上杉家の名跡を受け継ぎます。
謙信の急死後、景勝と景虎が争い、景勝が上杉家を継承します。
関ヶ原後に大幅減封されますが、米沢藩として存続し鷹山へ続きます。
関係をしぼって見る
越後守護代長尾氏から謙信が出る。
関東管領と上杉姓を継承する。
養子同士の後継争いと甲越同盟。
減封後の米沢藩をつなぐ。
藩財政危機から改革へ進む。
系図でひと目でたどる
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長尾景虎が兄晴景から家督を譲られる。
上杉憲政から関東管領と上杉姓を受ける。
武田信玄との対決が上杉家の武名を高める。
謙信急死後、景勝と景虎が後継を争う。
西軍側となり、会津120万石から米沢30万石へ減封される。
綱勝急死で断絶危機となるが、綱憲養子で存続する。
鷹山が藩主となり、米沢藩改革を進める。
まず覚える人だけ
長尾為景1486-1543土台謙信の父で越後長尾氏の実力を高めた。
上杉謙信1530-1578越後の龍上杉姓と関東管領を継ぎ、武田信玄と対決した中心人物。
上杉景勝1556-1623米沢の祖御館の乱に勝ち、関ヶ原後は米沢へ減封される。
上杉景虎1554-1579御館北条氏康の子で謙信養子。御館の乱で敗れる。
菊姫1558-1604武田接続武田信玄の娘。甲越同盟で景勝正室となる。
上杉定勝1604-1645米沢継承米沢藩2代として減封後の家を継ぐ。
上杉綱憲1663-1704存続綱勝急死後、養子として上杉家を存続させる。
上杉鷹山1751-1822改革米沢藩改革で知られる名君。
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謙信に実子がなく、景勝と景虎の御館の乱が上杉家の流れを決めました。
関ヶ原後に大幅減封されますが、家そのものは米沢藩として続きました。
戦国武将の家という印象に加え、鷹山の改革で江戸期の名君の家としても知られます。
短く読む
長尾景虎は上杉憲政から上杉姓と関東管領を受け、上杉謙信となりました。
謙信急死後、景勝と景虎が争い、景勝が家督を継ぎます。
景勝は関ヶ原で西軍側となり、会津から米沢へ大きく減封されました。
江戸後期には上杉鷹山が藩政改革を進め、米沢上杉家の名を高めました。
出典をたどって深く読む
越後守護代・長尾氏から興り、長尾景虎(上杉謙信)が関東管領・上杉憲政から上杉姓を継承して戦国大名・上杉家となった一族。謙信は武田信玄との川中島の戦いで「越後の龍」と称され、生涯独身を貫いた。謙信の急死後に起きた御館の乱で甥の景勝が養子・景虎を破って家督を継ぎ、秀吉政権下で五大老の一人に。関ヶ原敗戦で会津 120 万石から米沢 30 万石に減封されるも米沢藩として存続、9 代鷹山は「三百諸侯第一の賢君」と称された藩政改革の名君として知られる。戦国から明治まで 300 年以上、名族の血を保った希有な一族。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 一族名 | 上杉家(越後長尾→関東管領山内上杉→米沢上杉) |
| 起源 | 公家・勧修寺流藤原氏支流(上杉氏)、越後守護代長尾氏 |
| 戦国期拠点 | 春日山城(越後、1474-1598) |
| 江戸期拠点 | 米沢城(出羽国置賜郡、1601-1871) |
| 家紋 | 上杉笹(竹に雀) |
| 石高 | 越後 60 万石 → 会津 120 万石 → 米沢 30 万石 → 15 万石 |
| 歴史的役割 | 川中島の宿敵、御館の乱、五大老、米沢藩藩政改革 |
上杉氏は本来、公家・勧修寺流藤原氏の支流で、南北朝期に武家化した関東管領山内上杉家が関東八ヶ国を支配した。戦国期に北条氏の攻勢で衰え、1552 年に山内上杉憲政が越後守護代・長尾景虎を頼って越後に逃れ、1561 年に関東管領職と上杉姓を景虎に譲渡した。これが戦国大名としての上杉氏の成立である。
景虎=上杉謙信は武田信玄と川中島の戦い(1553-1564、5 次)、織田・北条とも対戦し、「越後の龍」と称された。しかし生涯未婚・実子なし(生涯不犯)で、甥の景勝と北条氏康の子景虎の 2 人を養子とした。1578 年の謙信急死後、2 人の間で御館の乱(1578-1579)が勃発、景勝が勝利して上杉家当主となった。
秀吉政権下で景勝は五大老の一人となり会津 120 万石を領したが、1600 年の関ヶ原で西軍に与し、敗戦で米沢 30 万石(後に 15 万石)へ大減封された。しかし米沢藩として江戸時代を生き延び、18 世紀後半に 9 代鷹山が破綻寸前の藩財政を再建、「三百諸侯第一の賢君」と称賛された。明治維新後は伯爵として華族に列した。
本記事では 5 名を代表として紹介する。
越後守護代・長尾為景の四男、母は虎御前(青岩院)。幼名虎千代。1543 年に元服して長尾景虎を名乗る。1548 年、病弱な兄・晴景から 19 歳で家督を譲られ春日山城主となった。
1553 年から武田信玄と川中島の戦いを開始、5 度にわたる死闘は戦国史屈指の名勝負となった。1561 年、北条氏に圧迫されて越後に逃れた関東管領・上杉憲政から関東管領職と上杉姓を継承し、以後「上杉政虎」「上杉輝虎」と改名、出家後は法号の「謙信」で知られる。
毘沙門天信仰に篤く「義」を掲げた戦いを展開したと伝わり、生涯独身・実子なし(生涯不犯)を貫いた。1577 年の手取川の戦いで織田軍を破り、上洛を目前にしていた 1578 年 3 月 13 日、春日山城で急死した(死因は脳溢血が有力とされるが、胃の病・急性膵炎など諸説ある)。享年 49。
謙信の甥(姉仙桃院と長尾政景の子)。1564 年に父政景が溺死すると、伯父謙信の保護下で育ち、やがて養子に。1578 年の謙信急死で御館の乱(後述)が勃発し、もう一人の養子・景虎を破って家督を継いだ。
秀吉政権下で五大老(家康・利家・輝元・秀家とともに)となり、会津120 万石を領したが、1600 年の関ヶ原で石田三成ら西軍に与し、家老直江兼続の「直江状」で徳川家康を挑発。敗戦の結果、米沢 30 万石に大減封された。以後は徳川幕府に忠実に仕え、1623 年に米沢で 69 歳で没す。米沢藩 270 年の祖。
北条氏康の七男。1569 年の越相同盟(上杉・北条の和睦)を背景に、翌 1570 年(永禄 13)に越後へ入って謙信の養子となった。謙信から旧名「景虎」を下賜される厚遇を受け、謙信の姪(仙桃院の娘、華姫とも伝わる)と婚姻した。
1578 年の謙信急死後、同じ養子の景勝と御館の乱で家督を争うも敗北。翌 1579 年、逃亡中の越後鮫ヶ尾城で堀江宗親の裏切りに遭い自害、享年 26。謙信の寵愛を受けながら悲劇的な最期を遂げた美男子として、後世に語り継がれる。
日向高鍋藩主・秋月種美の次男として江戸で誕生。幼名松三郎。母方の祖母が 4 代綱憲の娘にあたり、鷹山自身も上杉の血を引いていた。1760 年、10 歳で米沢藩主・上杉重定の養子となり、1767 年 17 歳で藩主に就任(上杉治憲)。藩財政は借財 20 万両で破綻寸前だった。
鷹山は徹底した倹約(江戸仕切料を 1500 両→209 両に削減)、殖産興業(漆・桑・紅花・米沢織)、藩校興譲館再興、天明の大飢饉対策で藩を再建。1785 年に隠居し「鷹山」を号した。松平定信から「三百諸侯第一の賢君」と称賛され、名言「なせば成る なさねば成らぬ 何事も なさぬは人の なさぬなりけり」で知られる。明治期に内村鑑三『代表的日本人』に収録され、J.F. ケネディが最も尊敬する日本人と語ったとも伝わる(真偽諸説)。享年 72。
長尾為景の娘、謙信の姉。越後上田長尾氏・長尾政景に嫁ぎ、上杉景勝を産んだ。1564 年に夫政景が溺死した後は弟謙信の庇護下で景勝を養育。謙信死後の御館の乱で景勝を支え、秀吉政権下の米沢移封までを見届けた。享年 82 前後、戦国の混乱から江戸初期までを生き抜いた女性。
1578 年 3 月、上杉謙信急死は上杉家に後継問題を突きつけた。謙信には 4 人の養子(景勝・景虎・畠山義春・山浦景国)がいたが、主要な候補は景勝(姉仙桃院の子)と景虎(北条氏康の子)の 2 人。
この戦いで上杉憲政も、景虎の嫡男・道満丸とともに和睦交渉に向かう途上で景勝方に討たれた。景勝が勝利し、上杉家当主となる。1 年以上の内戦で上杉家の国力は大きく削がれたが、武田勝頼との和議の中で甲越同盟が成立し、戦後の 1579 年 7 月に勝頼の妹・菊姫が景勝に輿入れして再建を図った。
関ヶ原敗戦で 120 万石から 30 万石へ減封された米沢藩は、さらに試練を重ねる。
| 代 | 当主 | 在職 | 出自・備考 |
|---|---|---|---|
| 初代 | 景勝 | 1601-1623 | 秀吉五大老、関ヶ原敗戦で減封 |
| 2 代 | 定勝 | 1623-1645 | 景勝側室清円院所生 |
| 3 代 | 綱勝 | 1645-1664 | 26 歳で急死、嫡子なし |
| 4 代 | 綱憲 | 1664-1704 | 吉良義央の実子(綱勝妹・富子の子)、15 万石に半知減封 |
| 5 代 | 吉憲 | 1704-1722 | |
| 6 代 | 宗憲 | ||
| 7 代 | 宗房 | ||
| 8 代 | 重定 | 1750-1767 | 藩財政破綻、藩返上を検討 |
| 9 代 | 鷹山(治憲) | 1767-1785 | 秋月家より養子、中興の祖 |
| 10 代 | 治広 | 1785-1812 | 重定の実子、鷹山が「養父」扱いで家督を譲る |
4 代綱憲の実父は吉良義央(上野介)。1701 年の松の廊下事件で浅野内匠頭が義央を刃傷、1702 年 12 月 14 日の赤穂浪士討ち入りで義央が討たれた。
米沢藩主の綱憲は実父の救援を望んだが、幕府の警戒もあり米沢藩は動かず、義央は討たれるに至った。この事件は実父を失った綱憲に生涯の痛手を残したと伝わる。米沢藩と赤穂事件の意外なつながりである。
1869 年の版籍奉還で米沢藩は廃され、13 代茂憲が最後の藩主となった(米沢藩主は初代景勝から数えて 13 代)。茂憲は第 2 代沖縄県令も務め、1884 年の華族令で伯爵に叙せられた。現在も上杉家は米沢市の上杉神社や上杉家廟所を中心に、地域の文化遺産として保存・継承されている。
上杉氏の家紋は竹に飛び雀(上杉笹・上杉雀)。2 本の竹の間に向かい合った 2 羽の雀を配した意匠で、公家・勧修寺流藤原氏の支流である上杉家が代々用いた。
武門に入ってからも家紋は変わらず、関東管領山内上杉家・扇谷上杉家・越後長尾系上杉家・米沢上杉家で同じ紋を使用。米沢藩の藩旗や藩士の印にも用いられ、現代でも米沢市の市章や山形県紋の一部にあしらわれる。