晴宗・輝宗が奥州の土台を広げる
天文の乱を経て、政宗世代の奥州支配の土台ができます。
伊達家は政宗の奥州制覇だけでなく、秀吉・徳川への対応、仙台藩と宇和島藩への分岐、幕末四賢侯の宗城までを追うと長い流れが見えます。
独眼竜政宗から仙台・宇和島へ分かれて続く奥州の家
最初に見るところ
天文の乱を経て、政宗世代の奥州支配の土台ができます。
摺上原で覇権を握り、天下人の時代に仙台藩の基礎を作ります。
秀宗が宇和島、忠宗が仙台を継ぎ、幕末の宗城へ続きます。
関係をしぼって見る
奥州で政宗世代の基礎を作る。
家督と奥州支配をめぐる中心。
宇和島と仙台へ分かれる。
徳川との婚姻関係で江戸期へ接続する。
宇和島伊達から幕末四賢侯へ続く。
系図でひと目でたどる
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晴宗が父稙宗と争い、伊達家の体制が変わる。
政宗が若くして家督を継ぐ。
蘆名氏を破り、奥州の覇権を握る。
秀吉に臣従し、領地を削られながら存続する。
政宗が仙台城を築き、仙台藩の基礎を作る。
秀宗が宇和島藩祖となり、伊達家が分かれる。
宇和島の宗城が幕末四賢侯として活動する。
まず覚える人だけ
伊達晴宗1519-1578祖父天文の乱を経て伊達家15代となった政宗の祖父。
伊達輝宗1544-1585父政宗の父。奥州での伊達家拡大を支えた。
伊達政宗1567-1636独眼竜奥州の覇権を握り、仙台藩の基礎を作った中心人物。
愛姫1568-1653正室政宗の正室で、仙台藩継承の母系を支える。
伊達秀宗1591-1658宇和島政宗の長男。宇和島伊達家の祖となる。
伊達忠宗1600-1658仙台仙台藩2代として藩政を整える。
五郎八姫1594-1661徳川接続徳川家康六男松平忠輝に嫁いだ政宗の娘。
伊達宗城1818-1892幕末宇和島藩主で幕末四賢侯の一人。
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晴宗・輝宗の土台があり、政宗の後に仙台と宇和島へ分かれて続きます。
秀吉への小田原参陣、徳川への接近が伊達家の存続を決めました。
伊達秀宗の分家は宇和島藩となり、宗城の幕末政治へ続きます。
短く読む
晴宗と輝宗の時代に奥州での伊達家の基盤が整いました。
政宗は摺上原で蘆名氏を破り、奥州の覇権を握ります。
関ヶ原後、政宗は仙台城を築き、仙台藩の基礎を作りました。
長男秀宗は宇和島藩祖となり、幕末には宗城が四賢侯として知られます。
出典をたどって深く読む
陸奥国伊達郡を発祥とする奥州の名族。戦国期に伊達輝宗の子・政宗が東北を席巻した(隻眼の武将で、後世「独眼竜」と称された)。秀吉・家康の天下統一の波に遅れつつも巧みに時代を乗り切り、1601 年に仙台城を築城、仙台藩 62 万石の祖となった。政宗の長男・秀宗は別家として伊予宇和島藩 10 万石の祖となり、仙台・宇和島両系統で明治維新まで存続。幕末の宇和島藩 8 代・伊達宗城は「幕末四賢侯」として薩長土を牽引、明治政府で外交を担った。現代まで続く名族。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 一族名 | 伊達家(奥州伊達氏、仙台伊達・宇和島伊達) |
| 起源 | 藤原氏末裔・伊達朝宗が鎌倉期に陸奥伊達郡地頭 |
| 戦国期 | 米沢城(山形県)→ 会津若松 → 岩出山 |
| 江戸期 | 仙台城(宮城、仙台藩 62 万石)、宇和島城(愛媛、宇和島藩 10 万石) |
| 家紋 | 竹に雀(仙台笹)、九曜(替紋) |
| 歴史的役割 | 奥州の戦国統一、仙台藩 270 年、慶長遣欧使節、幕末四賢侯 |
伊達氏は中世に陸奥伊達郡を領し、南北朝期には南朝方として活躍、戦国期の 16 代輝宗・17 代政宗で最盛期を迎えた。政宗は 1589 年の摺上原の戦いで蘆名義広を破り奥州の覇権を握ったが、1590 年の小田原参陣が遅れて会津を没収された。関ヶ原以降は徳川に忠実に仕え、1601 年に仙台城築城、仙台藩 62 万石(加増で 62 万 5000 石)を領する外様大大名となった。
政宗の長男・秀宗は母が側室のため仙台を継げず、1614 年に伊予宇和島 10 万石を与えられて宇和島藩祖となった。以後、仙台伊達(宗家)と宇和島伊達(分家)の二系統が明治維新まで続いた。
幕末、宇和島藩 8 代の伊達宗城は松平春嶽・山内容堂・島津斉彬と並ぶ「幕末四賢侯」の一人となり、高野長英・村田蔵六(大村益次郎)を招いて藩を近代化、明治政府では大蔵卿・欽差全権大臣として日清修好条規を締結した。
本記事では 5 名を代表として紹介する。
父・伊達輝宗と母・義姫(最上義光妹)の長男として米沢城に誕生。幼名梵天丸。幼少期の天然痘で右目を失明した(後世、唐の李克用になぞらえて「独眼竜」と称された)。1584 年、18 歳で家督を継ぎ、若さに物を言わせた猛進で東北諸大名を圧倒。
1585 年、父輝宗が二本松城主・畠山義継に拉致された粟ノ巣の変で、父を救うため義継もろとも銃撃する凄絶な決断を下した(諸説あり、政宗が撃てと命じた説が通説)。1589 年摺上原の戦いで蘆名義広を破り黒川城(会津若松)を占領、奥州南半を平定した。
しかし 1590 年の小田原参陣が遅れて秀吉の叱責を受け、会津を没収されて米沢に戻された。関ヶ原では徳川家康に属して忠誠を示し、仙台 62 万石を安堵。1601 年、新たに仙台城を築城して仙台藩を創設した。
1613 年には支倉常長を日本側使節(正使はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ)とする慶長遣欧使節をローマ教皇庁・スペイン王室に派遣する国際的構想を実行(日本人初の本格的な欧州政治外交使節)。晩年は江戸と仙台を往復し、伊達男の語源となった華美な文化人として過ごした。1636 年、江戸の伊達家上屋敷で 70 歳で没す。戒名は瑞巌寺殿貞山禅利大居士、墓所は瑞鳳殿(仙台市経ヶ峰)。
三春城主・田村清顕の娘。1579 年、11 歳で 13 歳の政宗に嫁いだ。当初は、愛姫付きの侍女・乳母が敵対勢力への内通を疑われて政宗に処刑される騒動があり、夫婦仲が一時険悪になったと伝わるが、京都時代以降に改善。政宗との書状のやり取りには『源氏物語』の引用があり、知的に深い絆が育まれた。
子に伊達忠宗(仙台藩 2 代)、五郎八姫(松平忠輝室)ら 4 人。政宗死後に出家し陽徳院を名乗り、瑞巌寺で 86 歳まで生きた。遺言した「田村家再興」は息子・忠宗が実現。戦国〜江戸初期の賢妻として記録が豊かに残る数少ない女性。
政宗の長男、母は側室の新造の方。1596 年(文禄 5 年、数え 6 歳ごろ)に豊臣秀吉の猶子となり「豊臣秀宗」を名乗った。秀吉没後は徳川方に転じたが、父政宗の正室・愛姫所生の忠宗が嫡子とされ、秀宗は仙台藩を継げなかった。
1614 年、父政宗の働きかけで伊予宇和島 10 万石を与えられ、大坂夏の陣(1615)での働きでこれを安堵された。以後 43 年間藩主を務め、1657 年に子の宗利に家督を譲って隠居、翌年江戸屋敷で 68 歳で没した。宇和島藩 270 年の祖。
政宗と愛姫の次男(兄・秀宗を越えて嫡子)。仙台藩 2 代藩主。政宗から受け継いだ藩を守成の名君として安定させた。1640-1643 年の寛永総検地、買米制度、仙台東照宮建立、父政宗の菩提寺瑞鳳殿建立などで仙台藩の骨格を完成させた。正室は徳川秀忠養女の振姫(池田輝政・富子の娘)。1658 年、兄秀宗と同年に没した。
旗本・山口直勝の次男として江戸で誕生。1829 年、11 歳で宇和島藩 7 代・伊達宗紀の養子となり、1844 年に 26 歳で 8 代藩主就任。高野長英を藩に匿い、村田蔵六(大村益次郎)を招いて洋式軍制を導入。蘭学・洋学を受容する藩として全国に知られた。
松平春嶽(福井)・山内容堂(土佐)・島津斉彬(薩摩)とともに「幕末四賢侯」と称され、公武合体・王政復古の政治を動かした。戊辰戦争後は明治政府に出仕、民部卿・大蔵卿(1869)、欽差全権大臣として清国と日清修好条規(1871)を締結、1881 年にハワイ国王カラカウアを接待するなど日本の近代外交を担った。享年 75。
政宗の生涯は「奥州の覇者になろうとした前半」と「徳川幕府の外様大名として処世した後半」で明確に分かれる。
「秀吉の一揆扇動疑惑」など危うい局面を、機智と演技で何度も切り抜けた。政宗の「時代を読む力」の原型がこの頃に形成された。
1615 年以降は明確に徳川の大名として文化事業・家の安定経営に注力。「生まれる時代が早ければ天下人になれた」と徳川家光に語ったとの逸話もある(真偽不明)。
| 代 | 当主 | 特記 |
|---|---|---|
| 初代 | 政宗 | 仙台藩祖、独眼竜 |
| 2 代 | 忠宗 | 守成の名君、瑞鳳殿建立 |
| 3 代 | 綱宗 | 素行問題で隠居命令、伊達騒動の発端 |
| 4 代 | 綱村 | 幼少で藩主、伊達騒動(寛文事件、1671) |
| 5 代 | 吉村 | 仙台藩中興の祖 |
| 13 代 | 慶邦 | 戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主 |
| 14 代 | 宗基 | 明治維新後の当主、伯爵 |
3 代綱宗が素行問題で隠居命令を受け、わずか 2 歳の綱村が 4 代藩主となった。幼少のため一門が後見したが、伊達兵部宗勝(政宗十男、一関藩主)と譜代家臣団の対立が激化、1671 年 3 月、江戸の大老酒井忠清邸で原田甲斐が刃傷事件を起こして家老数名が殺傷される大事件に至った。
幕府の裁定で綱村は 13 歳で親政開始、兵部宗勝は改易。加賀騒動・黒田騒動と並ぶ江戸三大御家騒動の一つとなり、歌舞伎や山本周五郎『樅ノ木は残った』(1962 年)など文学の題材にもなった。
13 代伊達慶邦は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主となり、新政府軍と対決。敗戦後に降伏、仙台藩は 28 万石に減封された。1869 年の版籍奉還で藩知事、1871 年の廃藩置県で藩廃止。1884 年、伯爵に叙せられた。
| 代 | 当主 | 特記 |
|---|---|---|
| 初代 | 秀宗 | 政宗長男、宇和島藩祖 |
| 7 代 | 宗紀 | 財政再建、98 歳まで生きた長寿 |
| 8 代 | 宗城 | 幕末四賢侯、明治政府外交 |
宗城は山口直勝(旗本)の次男として生まれ、宇和島藩に養子入り。蘭学・洋学・洋式軍制を積極的に受容し、罪人として幽閉中だった高野長英を藩に匿って翻訳をさせ、長州から追われた大村益次郎を招いて軍制改革を実施した。
1867 年の大政奉還・王政復古の過程で、宗城は公武合体論から王政復古派へ移行し、薩長土肥中心の新政府樹立を支持。1869 年の政府では民部卿兼大蔵卿、1871 年には欽差全権大臣として清国と日清修好条規を締結(これは日本最初の対等条約)。1881 年、ハワイ国王カラカウアの日本訪問を接待した。
明治維新前後の複雑な政治状況を、外様大名のなかでも洞察力と実行力で乗り切った人物として、現代でも宇和島では「宗城公」の尊称で親しまれている。
伊達氏の家紋は竹に雀(仙台笹・伊達笹)。2 本の竹の間に向かい合った 2 羽の雀を配した意匠で、上杉家の「上杉笹」と類似。天文 11 年(1542)、越後の上杉定実が伊達家から養子を迎える縁談(伊達天文の乱で破談)に際して贈ったのが起源と伝わる(諸説あり)。上杉謙信は当時まだ少年で、下賜の主体ではない。
竹の組み方と雀の姿勢で上杉笹と微妙に区別され、仙台笹は雀の数が多く、竹の節の描写が細かい。
替紋として九曜紋(中央の大円と周囲の 8 小円)も用いた。戦場では九曜紋の旗、平時には竹に雀の紋を使い分けた。