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戦国大名鎌倉時代〜明治

島津家(薩摩島津氏)

鎌倉期に島津忠久が源頼朝から薩摩・大隅・日向三国の守護職を与えられたのを始祖とする、日本で最も長く同じ領地を治めた大名家。戦国期に貴久が薩摩を統一、その子・義久と義弘が九州統一目前まで迫ったが、1587 年の秀吉九州征伐で降伏。関ヶ原では義弘が西軍だったが敵中突破で生還、改易を免れた。江戸期は薩摩藩 72 万石として琉球経営・黒糖専売で富を蓄え、幕末には 11 代斉彬集成館事業で近代化、異母弟久光と子忠義薩長同盟戊辰戦争を主導し明治維新を達成。西郷隆盛・大久保利通を輩出した。明治維新後は公爵

  • 人物
    14
  • 家族構造
    6
  • verified
    80%
  • 信頼度
    ★★

島津家(薩摩島津氏) 主要人物

14 人物のうち先頭 15 名 ・ 6 家族構造
  • 島津忠久1島津忠久1179-1227島津氏始祖
  • 2島津貴久1514-1571島津 15 代
  • 3島津義久1533-1611島津 16 代
  • 4島津義弘1535-1619島津 17 代
  • 5島津歳久1537-1592島津四兄弟
  • 6島津家久1547-1587島津四兄弟
  • 7島津忠恒1576-1638薩摩藩初代
  • 8亀寿1571-1630忠恒(家久)正室
  • 9島津斉興1791-1859薩摩藩 10 代
  • 10島津斉彬1809-1858薩摩藩 11 代
  • 11島津久光1817-1887国父
  • 12島津忠義1840-1897薩摩藩 12 代
  • 13天璋院篤姫1835-1883斉彬養女
  • 14お由羅の方?-1866斉興側室
  • 15候姫1815-1880SPARQL自動拡張

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もっと詳しく — 島津家(薩摩島津氏) の歴史と人物像を読む

島津家の家系図 — 700 年薩摩を治めた名族と幕末維新

家系図ずかん編集部 公開: 2026-04-22 | 品質: Draft(信頼度 ★★)

[戦国大名] [鎌倉時代〜明治] [日本]

鎌倉期に島津忠久が源頼朝から薩摩・大隅・日向の守護職を与えられて始まり、日本で最も長く同じ領地を治めた大名家として明治維新まで約 700 年続いた。戦国期に貴久が薩摩を統一、その子義久・義弘兄弟が九州統一目前まで迫ったが秀吉の九州征伐で降伏。関ヶ原では義弘が西軍でありながら敵中突破(島津の退き口)で薩摩に帰還し改易を免れた。江戸期は薩摩藩 72 万石として琉球・黒糖で財を築き、幕末の斉彬集成館事業で近代化、西郷隆盛・大久保利通を輩出、薩長同盟・戊辰戦争で明治維新を主導。天璋院篤姫は 13 代将軍家定の正室。明治以降は公爵


目次

  1. 概要
  2. インタラクティブ家系図
  3. 代表人物
  4. 島津の退き口 — 関ヶ原の敵中突破
  5. 集成館事業と幕末
  6. 家紋「丸に十の字」
  7. 関連する家系図
  8. 出典

概要

項目内容
一族名島津家(薩摩島津氏)
起源鎌倉期、島津忠久が島津荘地頭に
戦国期拠点内城(鹿児島市)→ 鶴丸城(鹿児島城)
江戸期拠点鹿児島城(薩摩藩 72 万 9000 石)
家紋丸に十の字
歴史的役割700 年薩摩支配、九州統一挑戦、琉球支配、幕末維新主導

島津家は日本史上、最も長期にわたって同じ領地を支配した大名家である。1185 年頃に源頼朝から島津荘(薩摩・大隅・日向)の地頭職を与えられた忠久以降、約 700 年、鎌倉・室町・戦国・江戸・明治にわたり薩摩を治めた。

戦国期に 15 代貴久が薩摩を統一、16 代義久と 17 代義弘の兄弟とその弟たち(歳久・家久)が九州統一を目前にしたが、1587 年の秀吉九州征伐で降伏。しかし本領安堵で存続。1600 年関ヶ原では義弘が西軍ながら敗戦の混乱の中で敵中突破島津の退き口)で薩摩へ帰還、徳川との交渉で本領 60 万石 + 琉球を保った。

江戸期は薩摩藩として、表向きは 72 万 9000 石だが実質 100 万石超の雄藩。1609 年の琉球征服で琉球王国を事実上の支配下に置き、黒糖専売で莫大な財を築いた。

幕末、11 代斉彬集成館事業(反射炉・洋式造船・紡績等)で日本最初の近代工業化を推進し、西郷隆盛・大久保利通ら人材を抜擢。異母弟久光が国父として文久の改革(1862)・生麦事件・薩英戦争を経験、1866 年の薩長同盟・1868 年の戊辰戦争で明治維新を主導した。天璋院篤姫(斉彬養女)は徳川 13 代将軍家定の正室として、幕末大奥の中心人物となった。

明治維新後は公爵に叙せられ、現代まで島津家は続いている。


インタラクティブ家系図

島津忠久(鎌倉期、始祖、頼朝落胤説)
  │
  …(中世 300 年)…
  │
島津貴久(15代、薩摩統一)
  │
  ├─ 島津義久(16代、九州統一挑戦)
  ├─ 島津義弘(17代、関ヶ原の敵中突破)
  │    └─ 島津忠恒/家久(薩摩藩初代、琉球征服)
  ├─ 島津歳久(秀吉により自刃)
  └─ 島津家久(沖田畷の天才、豊後戸次川で勝利後病死)
       
(…薩摩藩歴代 2-9 代…)
  │
島津斉興(10代、お由羅騒動)
  │
  ├─ 島津斉彬(11代、集成館事業、幕末四賢侯、西郷抜擢)
  │    └─(養女)── 天璋院篤姫(徳川家定正室)
  │    └─(養子)── 島津忠義(実は久光の子)
  │
  └─ 島津久光(国父、文久の改革、生麦事件)
       └─ 島津忠義(12代・最後の藩主、戊辰戦争、公爵)

代表人物

1. 島津義弘(1535-1619)— 鬼石曼子、敵中突破の猛将

父・貴久の次男、兄・義久の副将として九州統一戦で活躍。文禄・慶長の役で朝鮮に渡り、朝鮮軍からは「鬼石曼子(グイシマンズ)」と呼ばれて恐れられた。泗川の戦い(1598)では 7,000 の兵で明・朝鮮連合軍 30 万を撃退したと伝わる。

1600 年関ヶ原で義弘は西軍に属したが、毛利や石田三成との齟齬で兵力は 1,500 弱しか集まらず、本戦では傍観に近い状況だった。西軍敗戦後、義弘は敵軍(東軍)の真っ只中を正面突破して 300 騎で薩摩に帰還する前代未聞の撤退戦(島津の退き口)を敢行、生還した。

戦後は徳川家康との交渉で本領を安堵され、義弘の息子忠恒(家久)が薩摩藩初代藩主となった。義弘自身は加治木に隠居し、若武士の育成に生涯を捧げ、1619 年 84 歳で没。13 名の家臣が殉死した。

2. 島津義久(1533-1611)— 九州統一を目指した当主

貴久の嫡男、16 代当主。耳川の戦い(1578)で九州最大の大名・大友宗麟を破り、沖田畷の戦い(1584)で龍造寺隆信を討ち、九州 9 ヶ国中 8 ヶ国近くを支配下に収めた。あと一歩で九州統一という 1587 年、秀吉の九州征伐(20 万の大軍)で降伏。剃髪して弟義弘に家督を譲ったが、本領(薩摩・大隅・日向)は安堵され、以後も実質的な家中の発言権を保ち続けた。1611 年、79 歳で没。

3. 島津斉彬(1809-1858)— 集成館事業の賢君

薩摩藩 11 代藩主、幕末四賢侯(松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに)。家督継承を巡るお由羅騒動(1849)で父斉興と対立し、一時は島流しの危機にあった家臣団を救った後に 1851 年に藩主就任。

集成館事業として、鹿児島郊外の磯に反射炉・洋式造船所・製鉄所・ガラス工場・紡績工場・電信研究所などを建設、日本最初の近代工業コンビナートを実現した。西郷隆盛を抜擢し、郷士層からの人材登用を進めた。

将軍継嗣問題では一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推して井伊直弼と対立、1858 年に鹿児島城下の軍事演習中に急病(コレラ有力説)で急逝。享年 50。養女天璋院篤姫を徳川家定正室として送り込んだのも彼の遺策。

4. 島津久光(1817-1887)— 国父、維新を止められなかった保守派

斉彬の異母弟、母は側室お由羅の方。兄斉彬死後、子の忠義(12 代)を立てて国父として実権を掌握。公武合体論者として 1862 年に率兵上京文久の改革を実現(松平春嶽・徳川慶喜の幕政復帰)。京都からの帰途で生麦事件が起こり、翌年の薩英戦争に発展。これを機に薩摩は西洋軍事技術を摂取、倒幕の実戦力を蓄えた。

しかし久光自身は公武合体派で、西郷・大久保の倒幕路線とはしばしば対立。明治維新後は左大臣・内閣顧問となるも、急速な近代化を嫌って断髪せず、伝統的な髷を生涯守った。1887 年、70 歳で没。保守派の象徴として歴史に残る。

5. 天璋院篤姫(1835-1883)— 大奥を駆け抜けた薩摩の姫

島津本家分家・今和泉領主の娘として誕生、幼名於一。1853 年に斉彬の養女となり、さらに公家最高位の近衛家の養女となって 1856 年、徳川 13 代将軍・家定の正室として江戸城大奥に入った(2 段階養子による身分引き上げ)。

1858 年に家定が急死、出家して天璋院と名乗る。14 代家茂・正室の和宮(皇女)と大奥で一時期対立したが、後に和解、大奥の維持と徳川家存続のために尽力。

1868 年の戊辰戦争時、新政府軍を率いる実家・薩摩に対し、徳川家存続を嘆願した。江戸城無血開城後は東京で暮らし、1883 年に 47 歳で没。実家薩摩と嫁ぎ先徳川の狭間で生き抜いた女性として、2008 年 NHK 大河ドラマ『篤姫』で広く知られる。


島津の退き口 — 関ヶ原の敵中突破

1600 年 9 月 15 日、関ヶ原。西軍の敗勢が決した午後、島津義弘率いる 1,500 弱の島津軍は戦場中央に孤立した。撤退路は北からの東軍に阻まれ、残った選択肢は敵中正面突破のみ。

義弘は馬廻の精鋭 300 余騎とともに東軍の本陣方向(南東)へ突進。本多忠勝・井伊直政ら徳川軍の追撃を捨てがまり(殿軍が次々と身を投げ出す戦法)で振り切り、伊勢街道から堺経由で海路薩摩へ帰還した。薩摩に戻れたのは義弘本人と家臣 80 名余のみ。

戦後、徳川家康は島津討伐を主張したが、義弘と嫡男・忠恒の粘り強い交渉で本領安堵(薩摩・大隅・日向の一部)を獲得。関ヶ原西軍で唯一、領地を削られなかった大名となった。

この戦いは「島津の退き口」として、戦国最強の撤退戦の一つに数えられる。義弘の兜の立物(鬼の角)や家伝の十文字槍は、現代でも鹿児島の博物館で展示されている。


集成館事業と幕末

集成館事業(1851-1858)

斉彬は 1851 年の藩主就任直後から鹿児島の磯地区で近代工業化を開始。わずか 7 年で以下を実現:

  • 反射炉(日本最初の洋式鉄製造、1852)
  • 洋式造船所(蒸気船「昇平丸」「雲行丸」建造)
  • 紡績所(日本最初の機械紡績、後の鹿児島紡績所)
  • ガラス工場(薩摩切子)
  • 製薬所・写真所・電信研究所

斉彬の死後、集成館は一時衰退したが、1863 年薩英戦争で打撃を受けた後に再建され、明治政府の殖産興業モデルとなった。現代でも旧集成館機械工場は**世界遺産「明治日本の産業革命遺産」**の構成資産。

人材輩出

斉彬は下級武士からも人材を抜擢した。西郷隆盛(郷士の次男)、大久保利通(藩士の家)、大山巌東郷平八郎などが斉彬の時代に育ち、明治維新・明治政府の中核を担った。

薩長同盟・戊辰戦争

1866 年、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で薩長同盟成立。1868 年戊辰戦争で薩摩軍は鳥羽・伏見・上野・会津・北海道と転戦、旧幕府軍を打倒した。

この過程で西郷隆盛は江戸城無血開城の立役者、大久保利通は明治政府の中心となった。両者は 1877 年の西南戦争で対立し、西郷は敗死する。


家紋「丸に十の字」

島津家の家紋は丸に十の字(島津十字、轡紋)。丸の中に十字を配した意匠で、元は**馬具の轡(くつわ)**を様式化したものとされる。

キリスト教十字との類似から、戦国末期に薩摩に入ったキリシタン宣教師は島津家を「キリシタンに親和的」と誤解した逸話もある。江戸期のキリシタン弾圧でも家紋の変更は行われず、鎌倉期から現代まで一貫して島津家の象徴として使われている。

現代の鹿児島県旗は島津十字を基調としており、島津家 700 年の支配の名残が県の象徴として残る。


関連する家系図

  • 徳川家 — 天璋院篤姫が家定正室、戊辰戦争で幕府打倒、明治政府で薩摩閥が主導
  • 豊臣家 — 1587 年秀吉九州征伐で義久降伏、関ヶ原で義弘は西軍
  • 毛利家 — 薩長同盟(1866)で連携、明治維新の二大柱
  • 伊達家 — 斉彬と宗城は幕末四賢侯として並び立つ
  • 上杉家 — 鷹山と斉彬は江戸後期の名君として対比、明治公爵家として並列
  • 大友家 — 耳川の戦い(1578)で義久が破った九州の大名
  • 龍造寺家 — 沖田畷の戦い(1584)で家久が破る
  • 近衛家 — 天璋院篤姫の養家(公家最高位)
  • 琉球王国 — 1609 年から薩摩藩の支配下

出典

ランク A

  • Wikidata: Q1156288(義弘)、Q1143856(斉彬)、2026-04-22 verified

ランク B

  • 新名一仁『島津義弘』戎光祥出版、2017
  • 芳即正『島津斉彬』吉川弘文館(人物叢書)、1993

ランク C(Wikipedia、全て 2026-04-22 確認)


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日付編集者内容
2026-04-22編集部初版公開(Draft、Phase 1 第 8 件、v1.2 スキーマ)

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プリセット ID: shimazu / schemaVersion: 1.3 / 更新: 2026-05-01T00:00:00+09:00