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戦国大名鎌倉時代〜明治

島津家(薩摩島津氏)

島津家は鎌倉期の始祖から、義久・義弘の九州統一挑戦、関ヶ原の退き口、斉彬・久光・忠義の幕末維新まで、長期領国支配で読む家です。

薩摩を長く治め、九州統一挑戦から幕末維新へ進んだ家

主要人物 8鎌倉から明治維新へ出典は下部に整理

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最初に見るところ

流れで見る

1

忠久から薩摩支配が始まる

鎌倉期から薩摩・大隅・日向に根を下ろす長い領主家です。

2

義久・義弘兄弟が九州統一目前へ進む

戦国期に九州統一目前まで迫り、秀吉九州征伐で降伏します。

3

斉彬・久光・忠義で幕末維新の主役になる

集成館事業、国父久光、最後の藩主忠義が維新へつながります。

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家の流れ

始祖
島津忠久島津貴久

鎌倉以来の領国支配と戦国期の中興。

兄弟
島津義久島津義弘島津歳久島津家久

九州統一目前まで進む島津四兄弟。

薩摩藩
島津忠恒亀寿

関ヶ原後に本領を守り、薩摩藩へ移る。

幕末
島津斉興島津斉彬島津久光島津忠義

近代化と倒幕の中心へ進む。

徳川
天璋院篤姫

徳川家定正室として幕府中枢へ接続する。

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家系図
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世代範囲
祖先子孫
島津 斉興島津 斉彬島津 久光島津 忠義お由羅の方候姫池田斉敏島津千百子島津暐子島津寧島津珍彦島津忠欽島津忠済島津久治弥姫
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島津家(薩摩島津氏) の家系図(テキスト要約・15人)

  • 島津斉興(1791–1859)、配偶者: お由羅の方
  • 島津斉彬(1809–1858)、親: 島津斉興・弥姫
  • 島津久光(1817–1887)、親: 島津斉興・お由羅の方、配偶者: 島津千百子
  • 島津忠義(1840–1897)、親: 島津久光・島津千百子、養親: 島津斉彬、配偶者: 島津暐子
  • お由羅の方(?–1866)、配偶者: 島津斉興
  • 候姫(1815–1880)、親: 島津斉興
  • 池田斉敏(1811–1842)、親: 島津斉興
  • 島津千百子(1821–1847)、配偶者: 島津久光
  • 島津暐子(1851–)、親: 島津斉彬、配偶者: 島津忠義
  • 島津寧(1853–1883)、親: 島津斉彬、配偶者: 島津忠義
  • 島津珍彦(1844–1910)、親: 島津久光
  • 島津忠欽(1845–1915)、親: 島津久光
  • 島津忠済(1855–1915)、親: 島津久光
  • 島津久治(1841–1872)、親: 島津久光
  • 弥姫(1792–1824)、配偶者: 島津斉興
線の見方丸=人物(写真または頭文字)。生没年は名前の下に表示。

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ざっくり年表

人物の時間軸

島津忠久 1179-1227始祖
死去
島津貴久 1514-1571中興
死去
島津義久 1533-1611九州統一
死去
島津義弘 1535-1619退き口
死去
島津忠恒 1576-1638薩摩藩
死去
島津斉彬 1809-1858近代化
死去
島津久光 1817-1887国父
死去
天璋院篤姫 1835-1883徳川接続
死去
  1. 1185頃島津荘地頭

    忠久が島津荘に関わり、島津氏の起点となる。

  2. 1566義久家督

    義久が当主となり、弟たちと九州統一へ進む。

  3. 1578耳川

    大友氏を破り、九州での勢力を広げる。

  4. 1587九州征伐

    秀吉に降伏し、島津家は本領を守る方向へ転じる。

  5. 1600退き口

    関ヶ原で義弘が敵中突破して薩摩へ帰る。

  6. 1609琉球出兵

    忠恒の時代に琉球支配が始まる。

  7. 1851斉彬藩主

    集成館事業など近代化が進む。

まず覚える人だけ

主要人物

  • 島津忠久島津忠久1179-1227始祖

    島津氏始祖として長期領国支配の起点になる。

  • 島津貴久島津貴久1514-1571中興

    薩摩を統一し、義久・義弘ら四兄弟の父となる。

  • 島津義久島津義久1533-1611九州統一

    九州統一目前まで進んだ島津氏当主。

  • 島津義弘島津義弘1535-1619退き口

    関ヶ原の敵中突破で知られる武将。

  • 島津忠恒島津忠恒1576-1638薩摩藩

    薩摩藩初代として本領安堵と琉球出兵に関わる。

  • 島津斉彬島津斉彬1809-1858近代化

    集成館事業を進めた幕末四賢侯の一人。

  • 島津久光島津久光1817-1887国父

    藩主ではないが、忠義の父として薩摩藩の実権を握る。

  • 天璋院篤姫天璋院篤姫1835-1883徳川接続

    徳川家定正室として幕府中枢へ入った。

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もっと詳しく

島津家は時代幅が広い

鎌倉から幕末まで続くため、始祖・戦国四兄弟・幕末維新の3段で見ると整理しやすくなります。

関ヶ原で滅びずに残る

西軍側だった義弘が退き口で帰国し、忠恒の交渉で本領を守ったことが江戸期の薩摩藩につながります。

幕末の近代化へつながる

斉彬の集成館事業、久光・忠義の政治行動が、薩摩を維新の中心へ押し上げました。

短く読む

薩摩島津の長い流れを読む

忠久から長期領国支配が始まる

島津家は鎌倉期から薩摩・大隅・日向に根を下ろした長い大名家です。

義久・義弘兄弟が九州を動かす

戦国期には島津四兄弟が九州統一目前まで進みました。

関ヶ原後も薩摩に残る

義弘は関ヶ原で西軍に属しますが、島津家は改易を免れ薩摩藩として続きます。

斉彬以後、維新へ進む

斉彬、久光、忠義の時代に薩摩は幕末政治と明治維新の中心へ進みます。

出典をたどって深く読む

島津家(薩摩島津氏)をさらに詳しく

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鎌倉期に島津忠久が源頼朝から薩摩・大隅・日向の守護職を与えられて始まり、日本で最も長く同じ領地を治めた大名家として明治維新まで約 700 年続いた。戦国期に貴久が薩摩を統一、その子義久・義弘兄弟が九州統一目前まで迫ったが秀吉の九州征伐で降伏。関ヶ原では義弘が西軍でありながら敵中突破(島津の退き口)で薩摩に帰還し改易を免れた。江戸期は薩摩藩 72 万石として琉球・黒糖で財を築き、幕末の斉彬集成館事業で近代化、西郷隆盛・大久保利通を輩出、薩長同盟・戊辰戦争で明治維新を主導。天璋院篤姫は 13 代将軍家定の正室。明治以降は公爵

概要

項目内容
一族名島津家(薩摩島津氏)
起源鎌倉期、島津忠久が島津荘地頭に
戦国期拠点内城(鹿児島市)→ 鶴丸城(鹿児島城)
江戸期拠点鹿児島城(薩摩藩 72 万 9000 石)
家紋丸に十の字
歴史的役割700 年薩摩支配、九州統一挑戦、琉球支配、幕末維新主導

島津家は日本史上、最も長期にわたって同じ領地を支配した大名家である。1185 年頃に源頼朝から島津荘(薩摩・大隅・日向)の地頭職を与えられた忠久以降、約 700 年、鎌倉・室町・戦国・江戸・明治にわたり薩摩を治めた。

戦国期に 15 代貴久が薩摩を統一、16 代義久と 17 代義弘の兄弟とその弟たち(歳久・家久)が九州統一を目前にしたが、1587 年の秀吉九州征伐で降伏。しかし本領安堵で存続。1600 年関ヶ原では義弘が西軍ながら敗戦の混乱の中で敵中突破島津の退き口)で薩摩へ帰還、徳川との交渉で本領 60 万石 + 琉球を保った。

江戸期は薩摩藩として、表向きは 72 万 9000 石だが実質 100 万石超の雄藩。1609 年の琉球征服で琉球王国を事実上の支配下に置き、黒糖専売で莫大な財を築いた。

幕末、11 代斉彬集成館事業(反射炉・洋式造船・紡績等)で日本最初の近代工業化を推進し、西郷隆盛・大久保利通ら人材を抜擢。異母弟久光が国父として文久の改革(1862)・生麦事件・薩英戦争を経験、1866 年の薩長同盟・1868 年の戊辰戦争で明治維新を主導した。天璋院篤姫(斉彬養女)は徳川 13 代将軍家定の正室として、幕末大奥の中心人物となった。

明治維新後は公爵に叙せられ、現代まで島津家は続いている。


代表人物

1. 島津義弘(1535-1619)— 鬼石曼子、敵中突破の猛将

父・貴久の次男、兄・義久の副将として九州統一戦で活躍。文禄・慶長の役で朝鮮に渡り、朝鮮軍からは「鬼石曼子(グイシマンズ)」と呼ばれて恐れられた。泗川の戦い(1598)では寡兵で明軍を撃退したと伝わる(敵兵力は数万〜諸説あり、伝承では数十万とも語られる)。

1600 年関ヶ原で義弘は西軍に属したが、毛利や石田三成との齟齬で兵力は 1,500 弱しか集まらず、本戦では傍観に近い状況だった。西軍敗戦後、義弘は敵軍(東軍)の真っ只中を正面突破する前代未聞の撤退戦(島津の退き口)を敢行し、わずかな手勢とともに薩摩へ生還した。

戦後は徳川家康との交渉で本領を安堵され、義弘の息子忠恒(家久)が薩摩藩初代藩主となった。義弘自身は加治木に隠居し、若武士の育成に生涯を捧げ、1619 年 84 歳で没。13 名の家臣が殉死した。

2. 島津義久(1533-1611)— 九州統一を目指した当主

貴久の嫡男、16 代当主。耳川の戦い(1578)で九州最大の大名・大友宗麟を破り、1584 年には弟・家久を総大将として派遣した沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取るなど、九州 9 ヶ国の大半を支配下に収めた(義久自身は肥後水俣に在陣して全軍を統括)。あと一歩で九州統一という 1587 年、秀吉の九州征伐(20 万の大軍)で降伏。剃髪して弟義弘に家督を譲ったが、本領(薩摩・大隅・日向)は安堵され、以後も実質的な家中の発言権を保ち続けた。1611 年、79 歳で没。

3. 島津斉彬(1809-1858)— 集成館事業の賢君

薩摩藩 11 代藩主、幕末四賢侯(松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに)。家督継承を巡るお由羅騒動(1849)で父斉興と対立し、一時は島流しの危機にあった家臣団を救った後に 1851 年に藩主就任。

集成館事業として、鹿児島郊外の磯に反射炉・洋式造船所・製鉄所・ガラス工場・紡績工場・電信研究所などを建設、日本最初の近代工業コンビナートを実現した。西郷隆盛を抜擢し、郷士層からの人材登用を進めた。

将軍継嗣問題では一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推して井伊直弼と対立、1858 年に鹿児島城下の軍事演習中に急病(コレラ有力説)で急逝。享年 50。養女天璋院篤姫を徳川家定正室として送り込んだのも彼の遺策。

4. 島津久光(1817-1887)— 国父、維新を止められなかった保守派

斉彬の異母弟、母は側室お由羅の方。兄斉彬死後、子の忠義(12 代)を立てて国父として実権を掌握。公武合体論者として 1862 年に率兵上京文久の改革を実現(松平春嶽・徳川慶喜の幕政復帰)。京都からの帰途で生麦事件が起こり、翌年の薩英戦争に発展。これを機に薩摩は西洋軍事技術を摂取、倒幕の実戦力を蓄えた。

しかし久光自身は公武合体派で、西郷・大久保の倒幕路線とはしばしば対立。明治維新後は左大臣・内閣顧問となるも、急速な近代化を嫌って断髪せず、伝統的な髷を生涯守った。1887 年、70 歳で没。保守派の象徴として歴史に残る。

5. 天璋院篤姫(1835-1883)— 大奥を駆け抜けた薩摩の姫

島津本家分家・今和泉領主の娘として誕生、幼名於一。1853 年に斉彬の養女となり、さらに公家最高位の近衛家の養女となって 1856 年、徳川 13 代将軍・家定の正室として江戸城大奥に入った(2 段階養子による身分引き上げ)。

1858 年に家定が急死、出家して天璋院と名乗る。14 代家茂・正室の和宮(皇女)と大奥で一時期対立したが、後に和解、大奥の維持と徳川家存続のために尽力。

1868 年の戊辰戦争時、新政府軍を率いる実家・薩摩に対し、徳川家存続を嘆願した。江戸城無血開城後は東京で暮らし、1883 年に 47 歳で没。実家薩摩と嫁ぎ先徳川の狭間で生き抜いた女性として、2008 年 NHK 大河ドラマ『篤姫』で広く知られる。


島津の退き口 — 関ヶ原の敵中突破

1600 年 9 月 15 日、関ヶ原。西軍の敗勢が決した午後、島津義弘率いる 1,500 弱の島津軍は戦場中央に孤立した。撤退路は北からの東軍に阻まれ、残った選択肢は敵中正面突破のみ。

義弘は馬廻の精鋭とともに東軍の本陣方向(南東)へ突進。井伊直政・松平忠吉ら徳川軍の追撃を捨てがまり(殿軍が次々と身を投げ出す戦法)で振り切り、伊勢街道から堺経由で海路薩摩へ帰還した。約 1,500 の島津勢のうち、薩摩に生還できたのは義弘本人と家臣 80 名余のみであった。

戦後、徳川家康は島津討伐を主張したが、義弘と嫡男・忠恒の粘り強い交渉で 1602 年に本領安堵(薩摩・大隅 2 国と日向諸縣郡)を獲得。関ヶ原西軍で領地を削られなかった数少ない大名となった。なお琉球の事実上支配は 1609 年の侵攻以降である。

この戦いは「島津の退き口」として、戦国最強の撤退戦の一つに数えられる。義弘の兜の立物(鬼の角)や家伝の十文字槍は、現代でも鹿児島の博物館で展示されている。


集成館事業と幕末

集成館事業(1851-1858)

斉彬は 1851 年の藩主就任直後から鹿児島の磯地区で近代工業化を開始。わずか 7 年で以下を実現:

  • 反射炉(日本最初の洋式鉄製造、1852)
  • 洋式造船所(蒸気船「昇平丸」「雲行丸」建造)
  • 紡績所(日本最初の機械紡績、後の鹿児島紡績所)
  • ガラス工場(薩摩切子)
  • 製薬所・写真所・電信研究所

斉彬の死後、集成館は一時衰退したが、1863 年薩英戦争で打撃を受けた後に再建され、明治政府の殖産興業モデルとなった。現代でも旧集成館機械工場世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産。

人材輩出

斉彬は下級武士からも人材を抜擢した。西郷隆盛(郷士の次男)、大久保利通(藩士の家)、大山巌東郷平八郎などが斉彬の時代に育ち、明治維新・明治政府の中核を担った。

薩長同盟・戊辰戦争

1866 年、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で薩長同盟成立。1868 年戊辰戦争で薩摩軍は鳥羽・伏見・上野・会津・北海道と転戦、旧幕府軍を打倒した。

この過程で西郷隆盛は江戸城無血開城の立役者、大久保利通は明治政府の中心となった。両者は 1877 年の西南戦争で対立し、西郷は敗死する。


家紋「丸に十の字」

島津家の家紋は丸に十の字(島津十字)。丸の中に十字を配した意匠で、由来には諸説あり、馬具の轡(くつわ)を様式化した説、呪符(魔除け)に由来する説、龍にちなむ説などが伝わる(国立国会図書館レファレンス事例では呪符説が最有力とされる)。

キリスト教十字との類似から、戦国末期に薩摩に入ったキリシタン宣教師は島津家を「キリシタンに親和的」と誤解した逸話もある。江戸期のキリシタン弾圧でも家紋の変更は行われず、鎌倉期から現代まで一貫して島津家の象徴として使われている。

現代の鹿児島県旗は島津十字を基調としており、島津家 700 年の支配の名残が県の象徴として残る。


出典

ランクA

  • Wikidata: Q1156288(義弘)、Q1143856(斉彬)、2026-04-22 verified

ランクB

  • 新名一仁『島津義弘』戎光祥出版、2017
  • 芳即正『島津斉彬』吉川弘文館(人物叢書)、1993

ランクC(Wikipedia、全て 2026-04-22 確認)


最終更新: 2026-06-21T12:00:00+09:00