坂本家が土佐郷士として龍馬を育てる
八平、幸、権平、乙女の家族環境が龍馬の出発点になります。
坂本家は才谷屋系の郷士分家から、龍馬の脱藩、薩長同盟、海援隊、大政奉還へつながります。家族では乙女とおりょう、甥の直寛までを見ると流れがつかめます。
土佐郷士の家から、龍馬が薩長同盟と大政奉還へ動かした家
最初に見るところ
八平、幸、権平、乙女の家族環境が龍馬の出発点になります。
江戸修行、脱藩、勝海舟門下を経て、薩長同盟と海援隊へつながります。
龍馬は暗殺されますが、甥の直寛が明治期に家を継ぎます。
関係をしぼって見る
土佐郷士として家を支える。
姉と妻が龍馬の人生を支える。
明治期の坂本家とおりょう側の接続。
系図でひと目でたどる
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龍馬が江戸へ剣術修行に出る。
土佐藩を離れ、広い政治活動へ入る。
海援隊につながる活動基盤を作る。
薩摩と長州の同盟を仲介する。
後藤象二郎らと政権返上構想を進める。
龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺される。
甥の直寛が明治期まで坂本家をつなぐ。
まず覚える人だけ
坂本八平1797-1856父龍馬の父(諱は直足)、郷士坂本家3代当主。江戸修行を許し、出発点を作った。
坂本権平1814-1871家督龍馬の兄として坂本家を守った。
乙女1832-1879姉母代わりに龍馬を育て、書簡にも登場する姉。
坂本龍馬1836-1867中心薩長同盟、海援隊、大政奉還で知られる中心人物。
楢崎龍1841-1906妻おりょう。寺田屋遭難や霧島の旅で知られる龍馬の妻。
坂本直寛1853-1911明治龍馬の甥で郷士坂本家5代当主(権平の養子)。明治期に活動した。
坂本直足1797-1856本家接続坂本家の周辺系譜を補う人物。
楢崎将作1813-1862おりょう父おりょうの父として龍馬側の婚姻接続を示す。
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八平、幸、権平、乙女の家族環境が龍馬の出発点になります。
江戸修行、脱藩、勝海舟門下を経て、薩長同盟と海援隊へつながります。
龍馬は暗殺されますが、甥の直寛が明治期に家を継ぎます。
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八平、幸、権平、乙女の家族環境が龍馬の出発点になります。
江戸修行、脱藩、勝海舟門下を経て、薩長同盟と海援隊へつながります。
龍馬は暗殺されますが、甥の直寛が明治期に家を継ぎます。
詳細な事件や人物数を増やしすぎず、家の流れ、転換点、次の時代への接続を優先して整理しています。
出典をたどって深く読む
土佐国高知城下の郷士(下級武士)・坂本家は、本家の豪商・才谷屋から郷士株を得て明和 7 年(1770 年)に分家した一族。郷士坂本家 3 代当主坂本八平(直足)の次男・龍馬(1836-1867)が薩長同盟(1866)を仲介し、海援隊を率い、大政奉還を後藤象二郎とともに推進して明治維新の立役者となった。しかし慶応 3 年 11 月 15 日(1867 年 12 月 10 日)、京都近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺、享年 31(満)。姉乙女は母代わりに龍馬を教育、妻楢崎龍(おりょう)は寺田屋遭難で龍馬を救い、薩摩・霧島への旅を共にした。小さな家だが、日本近代史を動かした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 一族名 | 坂本家(土佐郷士) |
| 起源 | 土佐高知城下の豪商・才谷屋から郷士株を得て分家(明和 7 年=1770 年) |
| 拠点 | 土佐国高知 |
| 家紋 | 桔梗紋 |
| 歴史的役割 | 坂本龍馬による薩長同盟・海援隊・大政奉還 |
土佐藩郷士・坂本家に生まれ、八平(直足)の次男。母の没後は姉・乙女に養育され、1853 年に江戸へ剣術修行、北辰一刀流目録。1862 年に脱藩、勝海舟の門下で海軍・国際情勢を学んだ。
1866 年 1 月、京都で対立する薩摩(西郷隆盛・小松帯刀)と長州(桂小五郎)の間を取り持ち、薩長同盟を成立させた。同年、長崎に亀山社中(日本初の商社、後の海援隊)を設立し、武器・船舶を薩長に供給。いろは丸沈没事件(1867)で紀州藩から賠償金を引き出すなど、交渉手腕を発揮。
慶応 3 年、後藤象二郎を介して大政奉還を建言。慶応 3 年 10 月 14 日(1867 年 11 月 9 日)に徳川慶喜が政権返上を朝廷へ奏上し、翌 15 日に勅許された。しかしその約 1 か月後の慶応 3 年 11 月 15 日(1867 年 12 月 10 日)、京都河原町の近江屋で陸援隊長の中岡慎太郎と会談中、刺客(京都見廻組とされる)に襲撃され、龍馬は即死、慎太郎は 2 日後に死去。享年 31(満)。
1962-1966 年の司馬遼太郎『竜馬がゆく』で国民的ヒーローとなり、現在では幕末維新の最大の英雄の一人。
京都の医師・楢崎将作の長女。1864 年頃に龍馬と出会い、元治元年(1864 年)に内祝言を挙げたと伝わる。
寺田屋遭難(慶応 2 年 1 月 23 日=1866 年 3 月。1862 年の薩摩藩士による寺田屋騒動とは別事件)では、伏見寺田屋で入浴中に幕吏の襲撃を察知し、袷一枚をまとって階段を駆け上がり龍馬に警告して、龍馬の脱出を救った。龍馬は手に重傷を負いつつも危機を逃れ、その後薩摩の西郷隆盛の配慮で霧島温泉での療養を兼ねた薩摩への旅をした。これは日本の新婚旅行の嚆矢とも言われる。
龍馬暗殺後は坂本家を離れ、後に西村松兵衛と再婚して西村ツルと名乗り、1906 年に没(満 64)。
龍馬の 3 歳年上の姉。身長 5 尺 8 寸(約 175cm)と伝わる大柄な女性で、剣術・弓術・馬術・水泳を嗜んだ。母・幸が龍馬 10 歳の弘化 3 年(1846 年)に病没した後、母代わりに龍馬を養育・教育した。乙女が龍馬に宛てた書簡は多数残り、江戸遊学中や脱藩後も続いた手紙は龍馬の人物像を伝える一次史料として貴重。龍馬死後も長生きし 1879 年に没(満 47)。
郷士坂本家 3 代当主。山本信固の次男から坂本家の婿養子に入った。土佐藩郷士(白札)として禄を受ける。龍馬の江戸剣術修行(1853)を許した理解ある父。安政 2 年(1856 年 1 月)に没し、龍馬の脱藩(1862)は見なかった。
龍馬の兄・権平の養子(実父は高松順蔵)で、郷士坂本家 5 代当主。明治期にキリスト教牧師に転じ、高知自由民権運動の指導者として板垣退助らと連携。後に北海道に移住し、伝道・教育に尽くした。坂本家の幕末から明治への橋渡し的人物。
坂本家は土佐高知城下の豪商・才谷屋の分家。才谷屋 6 代目・直益が明和 7 年(1770 年)に郷士株を買い、長男・直海を郷士坂本家初代として分家させた。3 代・八平(直足、1797-1856)の次男・龍馬の代で歴史の表舞台に出た。
龍馬は 1862 年、土佐藩を脱藩(当時は重罪、家族に類が及ぶ)。姉乙女の奔走で家族への処分は免れた。江戸で勝海舟の門下、長崎で亀山社中設立、1866 年薩長同盟、1867 年大政奉還・近江屋暗殺と、5 年間の活動で歴史を動かした。
龍馬死後、兄権平が家を守り、その養子・直寛が明治の自由民権運動へ。現代まで坂本家は続く。
右(モバイルでは下)のインタラクティブ家系図で坂本家をたどると、歴史を動かした龍馬が、家の血筋の上では意外なほど「脇」にいることに気づく。龍馬は近江屋で暗殺され、実子を残さなかった。図で龍馬から下に伸びる親子線は、そこで途切れている。坂本家の家督は、長兄権平を経て、その養子直寛へと渡る。直寛は記録のうえでは龍馬の姉千鶴の子、つまり龍馬の甥にあたり、坂本家を継いだのは龍馬の血ではなく、姉の血だった。
この家を支えたのが、縦の継承よりも横のつながりだったことも、図はよく示している。10 歳で母を亡くした龍馬を母代わりに育てたのは、3 歳上の姉乙女である。脱藩という重罪を犯した龍馬の家に累が及ばぬよう奔走したのも、姉や兄たちだった。一人の英雄を中心に据えるより、その人を取り巻く姉・兄・甥といった横の線をたどったほうが、坂本家という郷士の一族の姿はよく見えてくる。