桶狭間と今川支配で断絶危機に陥る
直盛の戦死や直親の死で、井伊家は存続の危機に入ります。
井伊家は井伊谷の小領主から、直虎による存続、直政の徳川仕官、彦根藩と大老家、そして直弼の桜田門外の変までを一本で追う家です。
直虎が守り、直政が徳川四天王となり、直弼で幕末が動く家
最初に見るところ
直盛の戦死や直親の死で、井伊家は存続の危機に入ります。
直虎が幼い直政を守り、直政は家康の小姓から徳川四天王へ伸びます。
直孝以降、大老を輩出し、直弼の死が幕末の転換点になります。
関係をしぼって見る
桶狭間後の井伊谷で家を守る。
直虎が直政を養育し、徳川家で復興する。
彦根城と譜代大名筆頭の地位へ進む。
大老直弼と最後の藩主へつながる。
彦根城保存と近代の井伊家へ続く。
系図でひと目でたどる
家系図を時間で読む
直盛が今川義元とともに戦死し、井伊家が危機に入る。
次郎法師として幼い直政を守る。
直政が徳川家康に仕え、井伊家復興の道が開く。
直政が戦功を立て、佐和山18万石へ進む。
直孝が武功を立て、彦根藩の地位を高める。
幕末政局の中心となる。
直弼が暗殺され、幕末政治が大きく動く。
まず覚える人だけ
井伊直盛1506-1560危機直虎の父。桶狭間で戦死し、井伊家は危機へ入る。
井伊直虎1530-1582女城主幼い直政を守り、井伊家をつないだ人物。
井伊直政1561-1602徳川四天王家康に仕え、彦根井伊家の起点となった。
井伊直勝1590-1662彦根彦根城築城期の人物。
井伊直孝1590-1659大老家彦根藩を大きくし、幕府大老として重みを持った。
井伊直弼1815-1860幕末大老安政の大獄を断行し、桜田門外の変で暗殺された。
井伊直憲1848-1902最後最後の彦根藩主。明治期に伯爵となる。
井伊直愛1910-1993近代彦根市長として彦根城保存と観光振興に関わった。
全体像をもう少し見る
直虎は直政へ井伊家をつなぐ役割が大きく、女城主という話題だけでなく家の存続点です。
井伊家は直政の徳川仕官によって、井伊谷の国人から譜代大名筆頭へ変わります。
彦根藩主家から大老を輩出し、直弼の死は幕末の大きな転換点となりました。
短く読む
桶狭間で直盛が戦死し、井伊家は今川支配下で存続危機に入ります。
直虎は幼い直政を守り、井伊家を徳川復興へつなぎました。
直政は徳川四天王として活躍し、関ヶ原後に佐和山へ進みます。
井伊直弼は大老として幕末政局を動かし、桜田門外の変で暗殺されました。
出典をたどって深く読む
井伊家は、遠江国井伊谷の国人領主を出自とし、戦国末期の存亡危機を乗り越えて徳川家康に仕え、徳川四天王筆頭として近江彦根藩 35 万石の譜代大名筆頭格となった一族である。5 名の幕府大老を輩出し、その最後となった井伊直弼(1815-1860)は、安政の大獄を断行した直後に桜田門外の変で水戸浪士に暗殺された。明治期は伯爵として華族入り、現代も彦根城を中心とする文化財の保存に関与し続けている。
井伊直盛の娘。許嫁の井伊直親が今川氏に誅殺された後、男系の絶えた井伊家を継ぐため出家して**「次郎法師」と名乗り、養子となる幼少の井伊直政**(虎松)を養育した。今川氏の井伊谷支配下で家を守り抜き、後の徳川治世での井伊家復興の土台を築いた。2017 年 NHK 大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公として広く知られる。近年「直虎=男性説」「別人物説」も提唱され、史料的議論は継続中。
井伊直親の子。幼少期は井伊直虎(次郎法師)に養育され、1575 年に 15 歳で徳川家康の小姓として出仕。「赤鬼」の異名を取る井伊の赤備え(武田旧臣を組み入れた赤一色の精鋭部隊)を率いて武功を重ね、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政と並ぶ徳川四天王の筆頭格となった。
1600 年関ヶ原で島津軍を追撃して鉄砲傷を負い、戦功で近江佐和山 18 万石を拝領するも、傷の悪化で 1602 年に 42 歳で没した。彦根藩井伊家の祖。
井伊直政の次男。1615 年大坂夏の陣で武功、兄直勝に代わり彦根藩 2 代藩主となる。幕府大老として家光・家綱期に君臨、彦根藩を 35 万石に加増させた。井伊家から出た 5 名の大老の最初。豪徳寺の招き猫伝説(鷹狩の途中、寺の招き猫により雷雨を逃れた)で知られる。
彦根藩 13 代藩主、井伊家 15 代当主。13 代藩主直亮の異母弟で 14 男として生まれ、長く部屋住みで「埋木舎」に住み茶道・国学・和歌を修めた。茶道では石州流の達人で、自著『茶湯一会集』に「一期一会」の理念を遺した。
1850 年に異母兄直亮の死で藩主就任、1858 年 4 月に幕府大老となる。日米修好通商条約の勅許なき調印を断行、将軍継嗣問題では紀州慶福(家茂)を成功裏に擁立した。一橋派の徳川斉昭・松平慶永らを処分し、安政の大獄で吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎らを処刑、尊攘派を厳しく弾圧した。
1860 年 3 月 3 日、江戸城登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士 17 名・薩摩浪士 1 名による襲撃で暗殺された(桜田門外の変)。享年 46(数え)。彼の死により幕府の権威は急速に揺らぎ、明治維新へ向かう動きが加速した。
井伊家 16 代当主。第二次大戦後、長く彦根市長(1953-1989、9 期 36 年)を務め、彦根城の保存と観光振興に尽力した。妻井伊文子(1917-2004)は旧琉球王家・尚家の出身で、近世史料の保存にも貢献した歌人として知られる。
井伊家 18 代当主。井伊家伝来史料の保存・公開、彦根城を中心とする文化財管理に関する公務に携わる。本プリセットでは「公人として公表している情報のみ」を扱い、私生活・家族の詳細は記述しない(研究基準 §6 存命人物方針)。
井伊氏は遠江井伊谷の国人領主で、藤原氏支流を称した。今川氏の支配下にあったが、桶狭間の戦い(1560)で当主直盛戦死、許嫁直親も今川氏により誅殺、男系の継承が途絶える危機を迎えた。
直盛の娘・直虎が「次郎法師」として家督を守り、養子の直政(虎松)が徳川家康の小姓となる。直政は徳川四天王筆頭として武功を重ね、関ヶ原で 18 万石を拝領、井伊家は譜代大名筆頭の格を獲得した。
直孝が彦根城を居城に固め、35 万石に加増。井伊家からは江戸時代を通じて 5 代 6 度の大老が出た。具体名は直澄・直該(直興)・直幸・直亮・直弼(直孝を初代大老格として含める数え方もある)で、いずれも江戸幕府の中枢を支えた。
直弼の安政の大獄と桜田門外の変は、江戸幕府の権威崩壊の決定打となった。彦根藩は当初の佐幕傾向から戊辰戦争では新政府軍に与し、明治を迎えた。
1884 年に直憲が伯爵。井伊家は彦根に拠点を残し、井伊直愛が長く彦根市長を務め、文化財保存に貢献した。現代の井伊家 18 代当主も、彦根城・井伊家伝来史料の維持に関与している。
井伊氏の家紋は井桁紋。井桁(井戸の枠を上から見た形)を「井」の一字で表す紋で、「井伊」の家名を直接示す家紋として知られる。江戸期の彦根藩主家では橘紋(井伊橘)も併用された。
右(モバイルでは下)のインタラクティブ家系図で井伊家の縦線をたどると、一度途切れかけた血が女性の手で中継ぎされた、稀有な継承の形が見えてくる。当主直盛は桶狭間で討死し、男子がなかった。許嫁の直親も今川氏に誅殺され、井伊の男系は絶える寸前まで追い込まれる。このとき家を継いだのが、直盛の娘直虎だった。出家して「次郎法師」と名乗った女城主は、幼い直政を養い育て、男系の途絶えた井伊家を次の世代へとつないだ。
図の上でこの局面をたどると、親から子へまっすぐ下る線が一度細くなり、直虎という女性を経由して再び太くなる様子が見て取れる。直虎が中継ぎした直政は、やがて徳川四天王筆頭「赤鬼」として彦根 35 万石の譜代筆頭となり、その家系から幕末の大老直弼が出る。女城主の中継ぎがなければ、桜田門外で歴史を動かす井伊家もまた存在しなかった — 一本の家系図が、そのことを静かに語っている。