弥太郎が土佐から三菱を興す
地下浪人の家から藩の通商を経て、海運業で三菱を立ち上げます。
岩崎家は弥太郎が海運から三菱を興し、弥之助・久弥・小弥太の4代で財閥を広げました。娘たちの婚姻で政界にも接続します。
土佐の地下浪人から三菱を創業し、政界姻戚へ広がった岩崎家
最初に見るところ
地下浪人の家から藩の通商を経て、海運業で三菱を立ち上げます。
海運から鉱業・造船・銀行・商社へ広がります。
加藤高明・幣原喜重郎ら首相家へ姻戚が広がります。
関係をしぼって見る
土佐の地下浪人家から出発する。
三菱創業と弥太郎家の軸。
三菱2代と後藤家との婚姻。
3代・4代で財閥を多角化する。
首相家へ姻戚が広がる。
系図でひと目でたどる
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弥太郎が三菱商会を発足させる。
弟弥之助が2代社長となる。
久弥が3代社長となり、近代企業化を進める。
小弥太が4代社長となる。
岩崎家姻戚の加藤高明が首相となる。
戦後、GHQにより三菱財閥が解体される。
3代久弥が戦後まで生きる。
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岩崎弥次郎1813-1871父弥太郎・弥之助の父。
岩崎弥太郎1835-1885創業三菱財閥を創業した中心人物。
喜勢1847-1900創業家弥太郎の妻。子女を通じて政界へ接続する。
岩崎弥之助1851-19082代三菱2代社長として多角化を進めた。
岩崎久弥1865-19553代三菱3代社長。合資会社化などを進める。
岩崎小弥太1879-19454代三菱4代社長。戦前財閥期を担う。
春路1870-1946政界接続加藤高明に嫁いだ弥太郎の娘。
幣原喜重郎1872-1951首相接続岩崎家の女婿で戦後首相となる。
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地下浪人の家から藩の通商を経て、海運業で三菱を立ち上げます。
海運から鉱業・造船・銀行・商社へ広がります。
加藤高明・幣原喜重郎ら首相家へ姻戚が広がります。
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地下浪人の家から藩の通商を経て、海運業で三菱を立ち上げます。
海運から鉱業・造船・銀行・商社へ広がります。
加藤高明・幣原喜重郎ら首相家へ姻戚が広がります。
詳細な事件や人物数を増やしすぎず、家の流れ、転換点、次の時代への接続を優先して整理しています。
出典をたどって深く読む
岩崎弥太郎(1835-1885)は、土佐国安芸郡井ノ口村の地下浪人(無禄郷士)から身を起こし、たった一代で三菱の事業基盤を築き上げた明治実業界の巨星である。維新動乱期の長崎土佐商会から、廃藩置県後の九十九商会受託、三菱商会・郵便汽船三菱会社へと事業を拡大。50歳で没するまでの僅か10年余で日本の近代海運業の基礎を築いた。続く弟弥之助・長男久弥・甥小弥太による4代の社長制で、海運から鉱業・造船・銀行・商社などへと多角化、戦前は最大級の財閥に成長した。1945年のGHQによる財閥解体で岩崎家は経営の前線から退いたが、三菱という企業群の系譜は現代まで続いている。本記事では岩崎家4代の戦前期(〜1945)の系譜と、加藤高明・幣原喜重郎ら明治-昭和の政界に連なる姻戚ネットワークを描く。
岩崎家には日本財閥史でも稀な血統重視の4代社長制がある。岩崎家伝記刊行会の公式伝記3冊『岩崎彌太郎伝』『岩崎彌之助伝』『岩崎小彌太伝』は、それぞれの代の遺産がどう受け継がれたかを克明に記録する。
| 代 | 社長 | 生没 | 在任 | 主な功績 |
|---|---|---|---|---|
| 初代 | 岩崎弥太郎 | 1835-1885 | 1873-1885 | 海運業創業、政府軍事輸送で躍進 |
| 2代 | 岩崎弥之助 | 1851-1908 | 1885-1893 | 海運から鉱業・造船・銀行への多角化、財閥基礎確立 |
| 3代 | 岩崎久弥 | 1865-1955 | 1893-1916 | 三菱合資会社設立、組織近代化、東洋文庫創設 |
| 4代 | 岩崎小弥太 | 1879-1945 | 1916-1945 | 三菱重工・三菱商事・三菱銀行分離、株式会社化、財閥本社体制完成 |
戦後は1945年9月のGHQ財閥解体命令を受け、12月に小弥太が没したのを最後に4代社長制は終焉し、創業家は経営の前線から退いた。
土佐安芸郡井ノ口村の地下浪人・岩崎弥次郎の長男として1835年に生まれる。幼名は[研究中]。父は1859年に庄屋との諍いで投獄されるなど一家の境涯は不安定だったが、弥太郎は1854年に江戸へ遊学、土佐藩参政・吉田東洋門下となり、後藤象二郎・大江卓ら同志を得た。
1867年(慶応3)、長崎で後藤象二郎の下で土佐藩通商担当となる。1870年には開成館長崎土佐商会で藩貿易の実務を取り仕切った。1870年に土佐藩の船を借りて大阪で創業した九十九商会を、廃藩置県(1871)前後に弥太郎が個人として引き継ぎ、1873年に三菱商会へ改称、東京・日本橋に本店を移した。
転機は1874年の台湾出兵である。海運企業の中で唯一、政府の軍事輸送に応じ、政府助成と荷役の独占権を獲得した。1875年に郵便汽船三菱会社として再編され、海運業の主要企業の地位を築く。1877年の西南戦争では再び政府軍事輸送を担い、財政基盤を強化した。
1881年の明治十四年政変後、1882年には政府主導で競合の共同運輸会社が設立される。運賃競争の渦中、弥太郎は1885年2月7日、共同運輸との合併が決まる5日前に胃がんで没した。享年50。死の数ヶ月後、合併によって日本郵船(後の海運会社)が誕生する。50年の生涯のうち実業界での活動は僅か10年余であったが、日本の近代海運業の基礎を築いた。
弥太郎の弟。1872年に慶應義塾を卒業後、1873年から76年までアメリカに留学し、近代経済学・複式簿記・西洋的経営思想を吸収した。当時の日本人留学生としては最先端の教育を受けた一人である。
帰国後は兄を補佐し、1885年の弥太郎急逝で34歳で2代社長に就任。直後の1885年9月、共同運輸との合併で日本郵船が誕生し、海運から三菱本体が手を引く形となる。これを機に弥之助は鉱業(高島炭鉱・佐渡金山払下げ)、造船業(長崎造船所拡充)、銀行業(三菱為替店)へと事業の多角化を強力に推進、三菱を一企業から複合事業体へと脱皮させた。
1893年、海運分離で身軽になった三菱を三菱合資会社として再編、社長を甥(弥太郎長男)の久弥に譲る。以後は社会的活動に重点を置き、1896年から98年まで日本銀行第4代総裁を務めた。1907年男爵。明治期に古典籍・古美術を集め、その蔵書・美術コレクションは後の静嘉堂文庫(1892年設立)の中核となった。1908年3月、直腸がんで没。享年57。
弥太郎の長男。1886年に慶應義塾を卒業後、米国ペンシルバニア大学ウォートン校に留学、財政学を学ぶ。当時としては最先端のビジネス教育を受けた日本人の一人である。
1893年、叔父・弥之助から経営を引き継ぎ27歳で3代社長に就任。同年に三菱合資会社を設立し、それまでの個人経営を脱して株式合資会社という近代的な企業形態を採用した。これが日本の財閥組織の原型となる。
久弥の経営は弥太郎・弥之助のような派手さはないが、経営基盤を堅固にした守成期。神田駿河台と本郷茅町(現・旧岩崎邸庭園、重要文化財)に大邸宅を構え、洋館・和館・撞球室などを併存させた近代邸宅文化のひとつの極を築いた。建築は鹿鳴館・岩崎邸を多く手がけたお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの設計である。
1916年、社長を従弟(弥之助長男)の小弥太に譲って隠退。以後はアメリカ風のジェントルマンとして公的活動を続ける。1924年(大正13)に東洋文庫を創設、1917年に購入したジョージ・モリソン旧蔵の中国関係欧文文献コレクション(モリソン文庫、約24,000冊)などを中核に、東洋学研究の世界的拠点を整備した。これは現在も国立公文書館等とともに重要文化財指定史料を保有する研究機関である。戦後の財閥解体と本邸接収を経て、1955年12月、90歳の長寿で没した。
弥之助の長男。1879年(明治12)8月3日東京生まれ。東京帝国大学法科大学政治学科に学んだのち中退し、英国ケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに留学、1905年に卒業して帰国。三菱合資会社副社長を経て、1916年に久弥から経営を引き継ぎ37歳で4代社長に就任した。
小弥太の時代は、三菱が財閥として結晶化する完成期である。1917年に三菱造船・三菱製鉄を、1918年に三菱銀行・三菱商事を、その後三菱倉庫・三菱信託・三菱地所・三菱電機など主要事業を次々と独立企業化、財閥本社(三菱合資 → 1937年に三菱社株式会社化)が傘下を統括するコンツェルン体制を確立した。父弥之助以来の古典籍・古美術コレクションを引き継いで静嘉堂文庫を整備・拡充した(東洋文庫は従弟・久弥が1924年に創設)。
1930年代の戦争経済化のなか、三菱重工業(1934年三菱造船と三菱航空機の合併で誕生)は重工業の中核となる。1943年からは小弥太自身が三菱重工業社長を兼任した。
1945年9月28日、GHQによる財閥解体指令(四大財閥解体)が発令された。三菱本社(三菱社)社長として対応にあたるなか、1945年12月2日に肺がんで没した。享年66。死の翌年に三菱社は解散される。
弥之助の次男、小弥太の弟。三菱本流から離れ、旭硝子株式会社(後のAGC)を1907年に設立。日本初の機械製板硝子製造に成功し、ガラス工業の基礎を築いた。1930年に49歳で早世。三菱の家業から派生した独立企業の代表例である。
岩崎家は土佐藩でも下層の地下浪人(無禄郷士)で、坂本龍馬の家(郷士)と同等以下の社会階層に位置していた。弥太郎の父・弥次郎は地租を持たない零細農で、生計は不安定だった。弥太郎が1854年に江戸へ出て幕末維新の動乱期に身を置けたのは、本人の野心と土佐藩参政・吉田東洋の慧眼に依るところが大きい。
1860年代後半の長崎は、坂本龍馬の海援隊、グラバー商会、土佐商会などが交錯する『日本商業の近代化最前線』であった。弥太郎が長崎で身につけたのは、通商実務・西洋商人との交渉・海運経営の三つで、これが彼を後の三菱経営者たらしめる。
1873年の三菱商会発足から1885年の弥太郎死去までの12年間が、三菱の第一次発展期である。台湾出兵・西南戦争での政府軍事輸送は、明治政府との関係のもとに進められた。1881年の明治十四年政変後に競合の共同運輸会社が設立されたが、弥太郎の死と日本郵船発足により海運業が分離された結果、三菱本体は事業を組み替えていった。
弥之助の時代(1885-1893)は、海運から離れた三菱が鉱業・造船・銀行へと事業の足場を広げた多角化期。日本の近代経済史において、三菱と渋沢栄一の財界活動は明治期実業界を象徴する2つの系譜である。
1893年の三菱合資会社設立は、日本初の本格的『コンツェルン本社』の誕生である。久弥が確立し、小弥太が拡張した三菱合資 → 三菱社の体制は、戦前期の財閥モデルの典型となった。1918年の三菱銀行・三菱商事設立、1934年の三菱重工業発足、1937年の三菱社株式会社化(財閥本社化)を経て、1940年代初頭には大規模な企業集団に成長していた。
1945年9月28日のGHQ財閥解体指令は、三菱・三井・住友・安田の四大財閥を対象とした。三菱社は1946年に解散し、創業家は経営権から退いた。岩崎家は経営の第一線からは退いたが、岩崎小弥太の長男・英二郎(1921-2015、慶應義塾大学名誉教授・ドイツ語学者)に代表されるように、戦後は学究・文化の領域で家名を残してきた。三菱という企業群の系譜は現代まで続いている。
岩崎家の系譜を理解する上で欠かせないのが、明治・大正・昭和の政界とのネットワークである。
岩崎弥之助の妻早苗は、土佐藩参政・伯爵後藤象二郎(1838-1897)の長女である。後藤は弥太郎を見出して長崎商会業務を任せた『三菱の生みの親』格の存在で、岩崎家はその娘を娶って土佐人脈と結びついた。一方、岩崎久弥の妻寧子は旧飯野藩主・保科正益子爵の長女であり、岩崎家は大名華族とも姻戚を結んだ。
弥太郎の長女春路は、外交官出身の加藤高明(1860-1926)の妻となった。加藤は三菱重役の経歴を持つ親三菱政治家で、外相を4度歴任した後、1924年6月から1926年1月の死去まで第24代内閣総理大臣を務め、普通選挙法(1925年)成立を主導した。
弥太郎の四女(庶出)雅子は、外交官幣原喜重郎(1872-1951)の妻となった。幣原は戦間期に『幣原外交』(国際協調主義)を展開、1945年10月から1946年5月まで第44代内閣総理大臣として、戦後初代首相という難局に当たった。
つまり岩崎弥太郎の娘たちには2人の総理大臣の妻(春路:加藤高明妻、雅子:幣原喜重郎妻)が並ぶ。
4代社長小弥太の妻孝子は、薩摩藩主島津家の分家・島津珍彦男爵の娘である。創業家の岩崎家は、土佐の後藤家・大名華族の保科家に加え、薩摩島津家とも姻戚を結んだことになる。
岩崎久弥の娘の系譜が大久保利通・吉田茂の家系へと連なるとする記述があるが、姻戚関係には諸説あり、研究ノートでは要確認とされている。確定情報のみ記すなら、岩崎・後藤・加藤・幣原の各家が、明治-昭和の政界・実業界の中央に姻戚で繋がっていた点に注目される。
岩崎家の家紋は三階菱(さんがいびし)。3つの菱形を縦に積み重ねた幾何紋で、岩崎家が代々用いてきた古典的意匠である。
三菱マークの原型は1870年の九十九商会の船旗号にさかのぼる。岩崎家家紋の『三階菱』と土佐山内家家紋の『三つ柏』を組み合わせたものとされるが、もとは土佐山内家の家紋を図案化したものとする説もある(三菱公式)。三菱の名称『三菱』も、この『三つ菱』のロゴから来ている(『三』+『菱』)。家紋がそのまま近代企業のロゴへと連なった事例である。
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最終更新: 2026-05-01
執筆: 家系図ずかん編集部
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