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戦国大名戦国時代〜安土桃山時代

織田家

越前守護代斯波氏の被官として尾張に土着した織田氏から興り、織田信秀の子・信長が戦国三英傑として台頭した一族。信長は 1568 年の上洛で室町幕府を再興しつつ、1573 年に足利義昭を追放して事実上の天下人となった。1582 年の本能寺の変で信長と嫡男信忠が自害した後、清洲会議で信長の孫・三法師(秀信)が後継に立てられたが、豊臣秀吉の台頭で織田政権は崩壊。妹お市と浅井長政の三姉妹(淀殿・初・江)は豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠に嫁ぎ、織田の血は近世の三大政権すべてに流れた。信長次男・信雄の系統が江戸期に宇陀松山藩・丹波柏原藩などの大名・旗本として存続し、明治までその血筋を伝えた。

  • 人物
    25
  • 家族構造
    10
  • verified
    57%
  • 信頼度
    ★★
家系図
織田 信秀土田御前織田 信長濃姫生駒吉乃織田 信行お市の方織田 信広織田 長益織田 信忠織田 信雄織田 信孝徳姫織田 秀信塩川鈴冬姫浅井 長政柴田 勝家松平 信康蒲生 氏郷蒲生 秀行北畠 具教羽柴 秀勝豊臣 秀吉相応院織田信包織田秀孝織田勝長織田信高鶴姫 (中川秀政正室)織田信治織田信時織田長利お犬の方織田信照織田信与織田秀成森可成の娘 (織田秀信の母)織田秀則籍姫三の丸殿養観院坂氏北畠千代御前妙高院登久姫柴田勝義柴田勝里柴田勝忠蒲生賢秀蒲生武姫塩川長満織田長政 (戒重藩主)織田俊長織田尚長織田長孝織田頼長織田長益の娘 (松平忠頼の正室)織田信正 (村井重勝)永姫織田信秀於振織田信吉織田信好織田信貞織田秀子織田長次 (長兵衛尉)慈眼院 (織田信長の娘)月明院源光院報恩院原田直子興雲院慈徳院土方氏御ツマキ春誉妙澄大姉織田三吉郎信秀の生母あここの方養春院古仙慶寿大姉蒲生忠郷蒲生忠知崇法院養徳院織田達勝の娘 (織田信秀の正室)織田敏信の娘 (織田信秀の側室)中根氏 (織田信秀の妾のち水野信元の側室)織田信定含笑院犬山殿丹羽氏勝継室くらの方津田出雲守室乃夫殿信徳院殿神保・稲葉夫人遠山直廉夫人小幡殿栄輪院殿斎藤秀龍側室織田信秀の十女 (飯尾尚清の妻)

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織田家 主要人物

25 人物のうち先頭 15 名 ・ 10 家族構造
  • 織田信秀1織田信秀1511-1552尾張守護代被官
  • 2土田御前1513-1594織田信長母
  • 3織田信長1534-1582上総介
  • 4濃姫1535-1612織田信長正室
  • 5生駒吉乃1528-1566織田信長側室(通説)
  • 6織田信行1536-1558織田信長弟
  • 7お市の方1547-1583織田信長妹
  • 8織田信広?-1574織田信長庶兄
  • 9織田長益1547-1622織田信長弟
  • 10織田信忠1557-1582秋田城介
  • 11織田信雄1558-1630内大臣
  • 12織田信孝1558-1583織田信長三男
  • 13徳姫1559-1636織田信長長女
  • 14織田秀信1580-1605岐阜中納言
  • 15塩川鈴織田信忠側室

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もっと詳しく — 織田家 の歴史と人物像を読む

織田家の家系図 — 戦国の覇者、本能寺の落日、そして江戸の残照

家系図ずかん編集部 公開: 2026-04-22 | 最終更新: 2026-05-01 | 品質: Public-ready(信頼度 ★★)

[戦国大名] [安土桃山時代] [日本]

越前守護代斯波氏の被官から興った尾張の小勢力が、織田信秀の子・信長の代に戦国の覇者となった一族。1582 年の本能寺の変で信長と嫡男信忠が同時に倒れ、わずか 3 歳の嫡孫・三法師(秀信)が清洲会議で後継に立てられたが、豊臣秀吉の台頭で織田政権は事実上終焉した。信長の妹・お市と浅井長政の三姉妹(淀殿・初・江)はそれぞれ豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠に嫁ぎ、織田の血は近世日本の三大政権すべてに流れている。信長次男・信雄の系統は江戸期に宇陀松山藩・丹波柏原藩などの大名・旗本として明治まで存続し、織田宗家としての血筋は今も続いている。


目次

  1. 概要
  2. インタラクティブ家系図
  3. 代表人物
  4. 信長の兄弟
  5. 本能寺の変と清洲会議
  6. お市三姉妹が結ぶ豊臣・徳川との姻戚網
  7. 江戸期の織田家 — 信雄系の存続
  8. 家紋「織田木瓜」
  9. 関連する家系図
  10. 出典・参考文献
  11. 改訂履歴

概要

項目内容
一族名織田家(織田氏)
起源越前国織田荘、斯波氏被官として尾張に土着した織田弾正忠家
台頭期1554 年(信長家督相続)〜 1582 年(本能寺の変)
主な拠点清洲城 → 小牧山城 → 岐阜城 → 安土城
家紋織田木瓜(五瓜に唐花)
歴史的役割戦国統一の先導、楽市楽座・兵農分離・宗教勢力解体など近世社会の先駆け

織田氏は本来、越前国織田荘を名字の地とする氏族で、越前守護代斯波氏に被官として仕え、斯波氏が尾張守護を兼ねると尾張にも分家が展開した。尾張下四郡の守護代・織田大和守家の奉行人だった織田信定・信秀親子が 16 世紀初頭に勝幡城を拠点に急速に台頭し、やがて主家をしのぐ勢力となった。この織田弾正忠家から信長が生まれる。

織田信長(1534-1582)は戦国三英傑の筆頭として、桶狭間の戦い(1560)で今川義元を討ち、美濃を平定して 1568 年に上洛、1573 年に室町幕府を滅ぼして中央政権を事実上掌握。1575 年長篠の戦いで武田氏を破り、1582 年に武田氏を滅亡させた直後の 6 月 2 日、京都本能寺で家臣・明智光秀の謀反により自害した(本能寺の変)。嫡男信忠も同時に京都二条御所で討たれ、織田家の柱が一度に折れた。

事後の清洲会議(1582 年 6 月 27 日)で秀吉の策により嫡孫の三法師(秀信)がわずか 3 歳で後継に立てられたが、実権は秀吉に移り、織田政権は崩壊。次男信雄は一時は内大臣にまで昇ったものの失脚・改易を繰り返し、晩年に大和宇陀 5 万石に復帰。この信雄系が織田宗家として江戸時代を生き延び、明治期には子爵に叙された。


インタラクティブ家系図

※ 以下は簡易的な系譜図です。サイト公開時はインタラクティブビューアに置換。

織田信秀 ═ 土田御前
  │
  ├── 信広(庶長子、母は別側室)
  ├── 信長(三男、嫡男扱い)
  │    ║
  │    ├── (正室) 濃姫(斎藤道三娘)── 実子なし(諸説)
  │    │
  │    ├── (側室) 生駒吉乃(通説)
  │    │     ├── 信忠(嫡男・本能寺戦死)
  │    │     │    └── 秀信(三法師、岐阜城主、関ヶ原敗戦で改易)
  │    │     ├── 信雄(次男・宇陀松山藩祖、江戸期織田宗家)
  │    │     └── 徳姫(松平信康正室)
  │    │
  │    ├── (側室・坂氏)
  │    │     └── 信孝(三男・神戸家養子、賤ヶ岳後自害)
  │    │
  │    └── (多数の側室)
  │          └── 冬姫(蒲生氏郷正室、蒲生秀行母)
  │
  ├── 信行(信勝、同腹の弟、信長に誘殺)
  ├── お市(妹、浅井長政正室 → 柴田勝家継室)
  │    └── [浅井長政と] 茶々(→ 豊臣秀吉側室、淀殿)
  │                  初(→ 京極高次正室、常高院)
  │                  江(→ 徳川秀忠正室、崇源院、3 代家光の母)
  ├── 長益(有楽斎、弟、茶道有楽流)
  └── お犬の方ほか多数

代表人物

本記事では 5 名を代表として紹介する。詳細はビューア詳細パネルで展開する。

1. 織田信長(1534-1582)— 戦国の覇者

尾張国那古野城に生まれた織田信秀の三男。兄・信広が庶長子、次兄(信長と同腹の先順)は早世しており、信長が嫡男扱いとなった。若年期は奇矯な振る舞いで「うつけ者」と揶揄されたが、1560 年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、一気に全国に名を轟かせた。

美濃斎藤家を倒して 1567 年に岐阜を改称、「天下布武」の印判を使用。1568 年に足利義昭を奉じて上洛し室町幕府を再興、1573 年には義昭を追放して将軍不在のまま中央政権を掌握。1575 年長篠の戦いで武田氏を破り、1580 年に石山本願寺との 10 年戦争を終結、1582 年に武田氏滅亡。次は毛利・上杉を目指していた矢先、家臣・明智光秀の謀反により京都本能寺で自害。享年 49。楽市楽座・関所撤廃・兵農分離・宗教勢力解体など、近世社会の骨格を作る改革を断行した。

2. 織田信忠(1557-1582)— 本能寺に散った後継者

信長の嫡男。1575 年、19 歳で信長から家督を譲られ岐阜城主として美濃・尾張を支配。1582 年の甲州征伐で総大将を務めて武田氏を滅ぼし、信長から「天下の儀も御与奪」(天下の政治も任せる)と最高評価を得た。

しかし同年 6 月 2 日、本能寺の変で父信長が自害すると、京都妙覚寺にいた信忠は二条新御所に籠もって明智軍と戦ったが、衆寡敵せず自害した。享年 26。信忠の戦死で織田家は嫡流の柱を失い、3 歳の嫡子・三法師(秀信)が残された。

3. お市の方(1547-1583)— 戦国きっての美女、二度の落城

信長の妹。戦国きっての美女と伝わる。1568 年頃、兄の同盟政策で近江浅井長政に嫁ぎ、**茶々(淀殿)・初(常高院)・江(崇源院)**の 3 姉妹を産んだ。1573 年、兄信長と夫長政が敵対し、浅井家滅亡(1 度目の落城)で娘 3 人を連れて兄のもとへ戻る。

1582 年の本能寺の変後、信長家臣・柴田勝家の継室となったが、翌 1583 年の賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗北、越前北ノ庄城落城(2 度目の落城)で勝家とともに自害。享年 37。3 姉妹を脱出させたのは義兄にあたる秀吉で、これが後の豊臣政権と 3 姉妹の運命をつなぐ。

4. 織田有楽斎(長益、1547-1622)— 生き延びた弟、茶道の達人

信長の 13 歳下の弟。本能寺の変では甥の信忠とともに二条御所にいたが脱出し、以後は豊臣秀吉の御伽衆として摂津に 2000 石を領した。淀殿の庇護者として豊臣政権と織田家の橋渡しをし、大坂の陣では和平派として徳川と豊臣の間を仲介した。千利休に学んだ茶人でもあり、**「有楽流」**を創始、利休十哲の一人。国宝茶室「如庵」(現・愛知県犬山市有楽苑)を設計した。東京の「有楽町」は彼の江戸屋敷由来との俗説がある(裏付けは弱い)。享年 75。

5. 織田秀信(三法師、1580-1605)— わずか 3 歳の後継者

信長の嫡孫(信忠嫡子)。1582 年の本能寺の変直後、清洲会議(6 月 27 日)で秀吉の画策によりわずか 3 歳で織田家の後継に擁立された。歴史の表舞台で「三法師」の幼名で知られるのはこのためである。政治実権は秀吉に握られ、1592 年から岐阜城主として 13 万石を領有したのみ。1600 年の関ヶ原の戦いで西軍に属して岐阜城に籠もったが、東軍の池田輝政・福島正則に落城させられ改易。高野山に出家し、1605 年に 26 歳で病没した。織田宗家(信忠系)はここで断絶し、以後の宗家継承は弟・信雄系が担った。


信長の兄弟

織田信秀には多数の男女がおり、それぞれが戦国末期の運命を担った。

  • 織田信広(?-1574): 信秀の庶長子。母が側室のため嫡男の座は弟信長に譲り、末森城主として信長に仕えた。1574 年の伊勢長島一向一揆攻めで戦死。
  • 織田信行(信勝、1536 頃 -1558): 信長と同腹の弟。母が信勝を偏愛したと伝わる。1556 年、林秀貞・柴田勝家の支持を得て家督を争うが稲生の戦いで敗北。1558 年 11 月、再謀反疑惑で清洲城で兄信長に誘殺された。
  • お犬の方(生没年不詳): 佐治信方に嫁ぎ、後に細川昭元(京兆家)の後室となった。
  • 織田有楽斎(1547-1622): 前述、代表人物 4 参照。

本能寺の変と清洲会議

本能寺の変(1582 年 6 月 2 日)

1582 年、織田軍は武田氏を滅ぼし、信長は中国攻略のため京都に滞在していた。6 月 2 日未明、中国攻めに向かうと見せかけた明智光秀の軍勢 13,000 が京都本能寺を急襲。信長は寡兵で奮戦したが力尽きて自害。遺骸は発見されなかった。享年 49。

同日、京都妙覚寺にいた嫡男信忠は急報を受け、二条新御所に立て籠もって戦ったが、衆寡敵せず自害。織田家は最高指導者と後継者を同時に失った。

清洲会議(1582 年 6 月 27 日)

信長死去から 25 日後、羽柴秀吉の主導で清洲城に主要家臣(秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興)が集まり、後継者と領地分配を決めた。

  • 後継者: 信長嫡孫・**三法師(秀信)**を擁立。秀吉が三法師を抱いて現れ、勝家・信孝らを牽制した逸話は後世の創作とされるが、事実として 3 歳児が立てられた
  • 信雄: 尾張一国
  • 信孝: 美濃一国+三法師の後見役
  • 柴田勝家: 越前を従来通り+お市と婚姻
  • 秀吉: 山城・丹波など京畿内の要所

秀吉の政治的勝利が誰の目にも明らかだった。信孝・勝家は納得せず、翌 1583 年の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗北、信孝は岐阜城を落とされて尾張野間で自害(享年 26)、勝家・お市は北ノ庄城落城で自害、秀吉は織田家家臣から一気に天下人への階段を駆け上った。

三法師のその後

秀吉は三法師を保護し、岐阜城 13 万石の大名として育てた。成人後も秀吉・秀次に仕えたが、1600 年の関ヶ原で西軍につき岐阜城が落城、改易され高野山に出家。1605 年に没して織田信忠の嫡系(宗家)は断絶した。


お市三姉妹が結ぶ豊臣・徳川との姻戚網

織田家の歴史的影響を、男系の家督継承だけで読むと核心を逃す。信長の妹お市が浅井長政との間にもうけた三姉妹——茶々(淀殿)・初(常高院)・江(崇源院)——が、近世日本の三つの政権すべての中枢に嫁いだことで、織田の血は徳川幕府の終焉まで権力の中心を流れ続けた

お市は 1568 年頃に近江浅井長政(浅井家プリセット)に嫁いで 3 人の娘を産み、1573 年の浅井家滅亡後は娘たちを連れて織田家に戻った。本能寺の変後の 1582 年に信長家臣柴田勝家の継室となるも、1583 年の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ北ノ庄城落城時に自害。三姉妹は救出されて秀吉の保護下に入り、勝者の側の三大政権——豊臣・京極・徳川——の正室・側室となる。

茶々(淀殿、1567 頃 -1615)— 豊臣家の継承者を産む

長女茶々は 1588 年頃に豊臣秀吉豊臣家プリセット)の側室となった。秀吉と父長政は仇敵関係であり、母の自害にも秀吉が関わっていたことを思えば、これほど重い政治的婚姻はない。1589 年に鶴松(夭折)、1593 年に秀頼を産み、秀吉唯一の継嗣を残す。秀吉没後(1598)は事実上の豊臣家の頂点として大坂城を統べたが、1615 年の大坂夏の陣で秀頼とともに自害(享年 47)。信長の姪が信長家臣の子を産み、最後は信長同盟者の家康に滅ぼされる——三姉妹長女の運命である。

初(常高院、1570 頃 -1633)— 大坂の陣の和平仲介者

次女は 1587 年頃に若狭京極高次に嫁いだ。京極家は浅井家の旧主筋で家格的に釣り合う縁組だった。子なく姉妹の子を養女とし、1614-1615 年の大坂の陣では姉淀殿(豊臣方)と妹江(徳川方)の間の和平仲介役として両陣営を行き来した。1633 年京都で没、享年 64 前後。

江(崇源院、1573-1626)— 徳川 3 代将軍家光の母

末妹は 3 度の結婚を経て 1595 年に徳川秀忠徳川将軍家プリセット)の正室となり、3 代将軍家光・忠長を産んだ。これにより徳川幕府の歴代将軍家には織田信長の血が流れる。娘和子(東福門院)が後水尾天皇の中宮となって明正天皇を産んだため、織田の血は天皇家にも入った

「織田の血」がたどった三本の道

三姉妹嫁ぎ先産んだ後継者織田の血の到達点
茶々(淀殿)豊臣秀吉(側室)豊臣秀頼豊臣家最後の当主
初(常高院)京極高次(正室)養女のみ京極家・若狭・大津
江(崇源院)徳川秀忠(正室)徳川家光・和子徳川 3 代将軍家+明正天皇

加えて、信長の長女徳姫は徳川家康の長男松平信康に嫁ぎ(1567)、清洲同盟を人物的に実体化させた。次女冬姫は会津 92 万石蒲生氏郷に嫁いで蒲生秀行を産み、四男於次秀勝は秀吉の養子となって丹波亀山 10 万石を領した。織田の血は男系・女系の双方から豊臣・徳川の中枢に注ぎ込まれた——本能寺の変で滅んだはずの織田の血は、17 世紀の日本の支配層をすみずみまで覆っていた。


江戸期の織田家 — 信雄系の存続

本能寺の変で宗家は事実上崩壊したが、信長次男・信雄の系統が江戸時代を生き延びた。信雄は清洲会議で敗北後、秀吉・家康と駆け引きを繰り返して 2 度の改易を経験するも、1615 年の大坂の陣での仲介活動を家康に評価され大和宇陀松山 5 万石を与えられて大名復帰。享年 73。信雄の 5 人の男子は大名・旗本として分立した。

  • 信良: 宇陀松山 → 上野小幡 → 出羽高畠 → 天童藩(明治までの織田宗家)
  • 高長: 大和松山藩分家
  • 信武: 丹波柏原藩
  • 信貞: 上野小幡分家
  • 長政: 旗本

明治維新後、織田宗家(天童藩)は子爵に叙爵。現代まで信長の子孫を称する家系は複数存在し、織田の血は連綿と続いている。


家紋「織田木瓜」

織田氏の主要家紋は織田木瓜(五瓜に唐花)。瓜を輪切りにした断面を様式化した古代からある家紋で、日本では平安期から貴族の間で用いられていた。五瓜の枠内に唐花を配した意匠で、信秀・信長から信雄系の江戸期諸家まで一貫して使用された。現代でも織田氏ゆかりの団体(名古屋の神社など)で目にすることができる。


関連する家系図

  • 徳川将軍家 — 清洲同盟(1562)→ 信康事件(1579)→ お江を介して 3 代家光へ
  • 豊臣家 — 信長家臣から天下人へ。於次秀勝が秀吉養子、淀殿が秀頼母に
  • 浅井家 — お市の嫁ぎ先、浅井三姉妹の父系
  • 明智家 — 本能寺の変の実行者・光秀
  • 今川家 — 桶狭間の戦い(1560)で討った今川義元
  • 武田家 — 長篠(1575)・甲州征伐(1582)で滅ぼす
  • 朝倉家 — 姉川の戦いで信長と対決し滅亡
  • 足利将軍家 — 信長が義昭を擁立(1568)→ 追放(1573)で室町幕府滅亡

出典・参考文献

ランク A(一次資料・公式)

  • Wikidata: 織田家関連 23 名の Q 番号・基本プロパティを 2026-04-22 / 2026-05-01 に実地確認(CC0、検証済み ✓)
  • 『信長公記』 太田牛一(1598 年頃成立) — 信長の側近による伝記、信長研究の一次資料として最重要
  • 『寛永諸家系図伝』(1643 年成立、江戸幕府編纂) — 徳川幕府による全国諸家系譜の集成
  • 『フロイス日本史』 ルイス・フロイス(1583 年以降執筆) — イエズス会宣教師による信長同時代記録

※ 一次資料の原典該当ページの精査は次フェーズで実施予定。

ランク B(学術書)

  • 池上裕子『織田信長』吉川弘文館(人物叢書)、2012
  • 和田裕弘『織田信忠』中央公論新社、2019
  • 谷口克広『織田家の人々』吉川弘文館
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010 — 信長家臣 1,300 名以上を網羅
  • 小和田哲男『お市の方』山川出版社、2014 — お市と浅井三姉妹研究の標準書
  • 小和田哲男『浅井三姉妹』角川選書、2011 — 三姉妹の婚姻網と政治的意義

(書誌情報のみ確認、原典該当ページの精査は次フェーズで実施予定)

ランク C(Wikipedia、補助)

全 15 記事を 2026-04-22 / 2026-05-01 に本文確認済み: 織田信長 / 信秀 / 信忠 / 信雄 / 信孝 / 濃姫 / お市 / 有楽斎 / 徳姫 / 秀信(Wikidata 経由)/ 浅井長政 / 柴田勝家 / 松平信康 / 蒲生氏郷 / 豊臣秀吉。各 URL は oda.jsonexternalLinks 参照。

本記事で扱っていない論点

信秀以前の織田氏系譜(越前織田荘、斯波氏被官時代)、信雄系以外の江戸期大名家詳細、信長の側室全員、本能寺の変の動機諸説など。


品質レベルに関する注記

本記事は Public-ready レベル(信頼度 ★★)で公開。Wikidata で 23 名・Wikipedia で 15 記事を本文確認済み。一次資料(『信長公記』『寛永諸家系図伝』『フロイス日本史』等)の原典該当ページの精査と学術書籍 6 冊の引用箇所特定は次フェーズの課題。お市三姉妹を介した豊臣・徳川接続は relatedPresets / externalRefs / crossReferences で多重に表現済み。誤記を発見された方は X @okapi_tech までお寄せください。


改訂履歴

日付編集者内容
2026-04-22編集部初版公開(Draft、Phase 1 第 3 件、戦国三英傑パイロット完成)
2026-05-01編集部Wave A2-05 拡充。persons 16 → 25、sources 16 → 21、外部参照 4 件追加(asai / akechi / toyotomi / tokugawa-shogun)、お市三姉妹経由の豊臣・徳川接続セクション新設、Public-ready に昇格

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プリセット ID: oda / schemaVersion: 1.3 / 更新: 2026-05-01T00:00:00+09:00