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戦国大名戦国時代〜幕末

浅野家

尾張国春日井郡浅野村の土豪を出自とし、浅野長政が豊臣秀吉の正室・ねね(北政所)の妹おややと婚姻して秀吉の縁戚(義弟)となり台頭した一族。長政は秀吉政権の五奉行筆頭として行政を担い、関ヶ原では東軍に属して紀伊和歌山藩 37 万石を得た。長政長男・幸長の系統が後に安芸広島藩 42 万石として明治まで続き、三男・長重の系統が赤穂藩 5 万石となった。1701 年(元禄14年)、赤穂藩 3 代藩主浅野長矩(内匠頭)が江戸城松の廊下で吉良義央に刃傷、即日切腹となり藩は改易、翌年大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七士の討ち入り(赤穂事件)が起きた。広島浅野家は明治期に侯爵となり、現代まで続いている。

  • 人物
    10
  • 家族構造
    4
  • verified
    100%
  • 信頼度
    ★★★
家系図
浅野 長政おやや浅野 幸長浅野 長晟浅野 長重浅野 長直浅野 長矩瑤泉院長生院浅野長友浅野長治浅野長詮の娘 (安井重継の正室)安井重継栄雲院養梅院智相院慶雲院 (浅野幸長の正室)高原院浅野花姫松平家清の娘 (浅野長重正室)浅野光晟

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浅野家 主要人物

10 人物のうち先頭 15 名 ・ 4 家族構造
  • 1浅野長政1547-1611弾正少弼
  • 2おやや1548-1620浅野長政正室
  • 3浅野幸長1576-1613浅野長政長男
  • 4浅野長晟1586-1632広島浅野家祖
  • 5浅野長重1588-1632赤穂浅野家祖
  • 6浅野長直1610-1672赤穂浅野家初代
  • 7浅野長矩1667-1701従五位下内匠頭
  • 8瑤泉院1674-1714浅野長矩正室
  • 9大石良雄1659-1703赤穂藩家老
  • 10浅野長勲1842-1937広島藩 12 代
  • 11長生院1557-1616SPARQL自動拡張
  • 12浅野長友1643-1675SPARQL自動拡張
  • 13浅野長治1614-1675SPARQL自動拡張
  • 14浅野長詮の娘 (安井重継の正室)SPARQL自動拡張
  • 15安井重継1550-?SPARQL自動拡張

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もっと詳しく — 浅野家 の歴史と人物像を読む

浅野家の家系図 — 豊臣秀吉の縁戚から赤穂事件・広島藩 42 万石まで

浅野家は、尾張国春日井郡浅野村の土豪を出自とし、浅野長政豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)の妹を娶って秀吉の義弟となり台頭した一族である。長政は豊臣政権の五奉行筆頭として行政を掌握、関ヶ原では東軍に属して紀伊和歌山藩 37 万石を得た。長政次男・長晟の系統は安芸広島藩 42 万石として明治まで続き、三男・長重の系統は赤穂藩 5 万石となった。1701 年(元禄14年)、赤穂藩 3 代藩主浅野長矩(内匠頭)の松の廊下刃傷事件と翌年の赤穂浪士四十七士の討ち入り(赤穂事件)は、後に『仮名手本忠臣蔵』として劇化され、日本人の集合的記憶に深く刻まれた。

概要

  • 起源: 尾張国春日井郡浅野村の土豪、安井氏が浅野長勝の養子として浅野姓に
  • 時代: 戦国時代〜幕末(明治期は侯爵として継続)
  • 拠点: 尾張 → 紀伊和歌山 → 安芸広島 / 播磨赤穂
  • 家紋: 違い鷹の羽
  • 特徴: 秀吉縁戚として台頭、家康へ転じて二系統で江戸期存続、赤穂事件で歴史に名を刻む

代表人物

1. 浅野長政(1547-1611)— 豊臣五奉行筆頭

尾張国春日井郡の土豪・安井重継の子として生まれ、親類の浅野長勝の養子となった。長勝は秀吉正室ねねの叔父にあたり、長政は長勝の娘おやや(ねねの妹)を娶って秀吉の義弟となる。秀吉に従って播磨・若狭・甲斐などを領し、1593 年に五奉行筆頭として豊臣政権の行政の中核を担った。秀吉死後は徳川家康に接近、関ヶ原では東軍に属して紀伊和歌山 37 万石を得た。1611 年に常陸真壁で没、享年 65。秀吉政権の中で「閣僚級」の地位を得た最大の縁戚成功例の一つ。

2. 浅野幸長・長晟兄弟 — 紀伊→広島へ

長政の長男・幸長(1576-1613)は朝鮮出兵にも従軍、関ヶ原東軍として戦後紀伊和歌山藩を継ぐが、嫡子なく 38 歳で没。次男・長晟(1586-1632)が遺領を継ぎ、1619 年の福島正則改易の後を受けて安芸広島藩 42 万 6,500 石に転封。広島浅野家の祖となった。長晟の正室は徳川家康の三女・振姫(前夫蒲生秀行の死後の再嫁)で、徳川との姻戚関係も結ばれた。

3. 浅野長矩(1667-1701)— 松の廊下事件

赤穂浅野家 3 代藩主。1701 年(元禄14年)3 月 14 日、江戸城松の廊下で勅使饗応役を務めていた際、高家肝煎・吉良義央(上野介)に刃傷沙汰を起こした。「殿中抜刀」は重罪であり、5 代将軍綱吉の裁断で即日切腹、赤穂藩は改易された。動機は史料上明確でなく、吉良の侮辱・賄賂要求などが伝説として語られるが、定説はない。享年 35。

4. 大石内蔵助(良雄、1659-1703)— 赤穂浪士の筆頭

赤穂藩家老。長矩切腹後、家中を「殉死派」「再興派」「討入派」に揺れる中でまとめ上げ、1702 年 12 月 14 日(元禄15年)夜、赤穂浪士四十七士を率いて江戸本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央の首を取って主君の仇を討った。翌 1703 年 2 月、預けられていた江戸細川邸で切腹、享年 45。「忠臣蔵」の中心人物として日本史上最も有名な家老の一人となる。曽祖父大石良勝が浅野長重に仕えた譜代家老という、浅野家との 100 年来の主従関係が、四十七士結成の根底にあった。

5. 浅野長勲(1842-1937)— 明治期広島藩主、侯爵

広島藩 12 代藩主。戊辰戦争では新政府軍に与し、1869 年に版籍奉還で広島藩知事、1884 年に侯爵に列した。明治期の華族として活動を続け、95 歳の長寿を全うした。広島浅野家は現代まで続いている。

歴史的背景

創始期(戦国期)

浅野氏は尾張国春日井郡浅野村の土豪。長政の養父・浅野長勝が織田信長に仕え、長勝の養女ねねを秀吉に嫁がせたことで、浅野家と秀吉の縁が始まる。長政自身も長勝の娘を娶って秀吉と二重の縁戚関係を築いた。

発展期(豊臣政権下)

秀吉の天下統一過程で長政は要職を歴任し、五奉行筆頭として行政を掌握。豊臣政権の文官側の中核を成した。同じ五奉行の石田三成・増田長盛らとも協調した。

転換期(関ヶ原と二系統分立)

秀吉死後、長政は家康に接近。関ヶ原(1600)では東軍に属し、紀伊和歌山 37 万石を確保。長男幸長 → 次男長晟と継承され、長晟が 1619 年に広島 42 万石へ転封、広島浅野家を確立。三男長重の系統は別藩主家として、後に赤穂浅野家5 万石に発展した。

赤穂事件(1701-1703)

赤穂浅野家 3 代長矩の松の廊下刃傷 → 即日切腹 → 翌年の四十七士討ち入りという一連の事件は、忠義を巡る当時の倫理感覚を強烈に刺激し、即座に文学・演劇の題材となった。1748 年初演の『仮名手本忠臣蔵』は江戸期最大級のヒットとなり、現代に至るまで「忠臣蔵」は日本人の集合的物語として語り継がれている。

明治以降

広島浅野家は明治維新時に新政府側に立ち、12 代長勲が侯爵に列した。赤穂浅野家は事件で改易されたが、後に同族による再興が許され、旗本として存続した。

家紋

浅野氏の家紋は違い鷹の羽。鷹の羽を二枚交差させた意匠で、武家の鷹狩文化に由来する代表的家紋。広島浅野家・赤穂浅野家ともこの紋を継承した。

関連する家系図

  • 豊臣家 — 長政は秀吉の義弟、五奉行筆頭
  • 徳川将軍家 — 関ヶ原で東軍、長晟正室は家康三女振姫
  • 織田家 — 養父浅野長勝は信長家臣
  • 新選組 — 幕末の京都動乱期、浅野家からの直接関与は薄いが時代背景として関連

関連 Pillar / Ranking

関連 Guide

出典・参考文献

ランク A

  • Wikidata「浅野長政」(Q1196944)「浅野幸長」(Q1199569)「浅野長晟」(Q1199575)「浅野長矩」(Q1199585)「大石良雄」(Q840573)

ランク B

  • 山本博文『忠臣蔵とは何か』講談社(1991)

ランク C

  • Wikipedia「浅野長政」「浅野長矩」「大石良雄」

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最終更新: 2026-05-01 執筆: 家系図ずかん編集部

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プリセット ID: asano / schemaVersion: 1.3 / 更新: 2026-05-01T00:00:00+09:00