尊氏が北朝を立て室町幕府を開く
鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇と対立して新しい武家政権を作ります。
足利将軍家は尊氏の建武離反、義満の南北朝合一と文化、義政期の応仁の乱、義輝・義昭の終幕までを追うと、武家政権と文化の変化が見えます。
尊氏の室町幕府から、義満の最盛期、義昭追放まで続く将軍家
最初に見るところ
鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇と対立して新しい武家政権を作ります。
3代義満の時代に将軍権力と文化が大きく伸びます。
義政期の乱から弱体化し、最後は信長に追放されます。
関係をしぼって見る
室町幕府成立と初期の両頭政治。
2代から3代へ、南北朝合一と最盛期へ進む。
くじ引き将軍から専制化し、嘉吉の乱で討たれる。
後継問題と応仁の乱で幕府権威が揺らぐ。
永禄の変と義昭追放で室町幕府が終わる。
系図でひと目でたどる
家系図を時間で読む
尊氏が鎌倉幕府打倒へ動く。
建武新政から離れ、北朝を支えて武家政権を作る。
義満の時代に南北朝の分裂が終わる。
義教が赤松満祐に討たれ、将軍権威が揺らぐ。
義政期の後継問題などが絡み、長い戦乱が始まる。
剣豪将軍義輝が討たれる。
信長により義昭が追放され、室町幕府は実質的に終わる。
まず覚える人だけ
足利尊氏1305-1358初代室町幕府を開いた初代将軍。
足利義詮1330-13672代尊氏の後を継ぎ、幕府をつないだ。
足利義満1358-1408最盛期南北朝合一と北山文化で室町幕府の最盛期を作った。
足利義教1394-1441嘉吉くじ引き将軍。嘉吉の乱で討たれる。
足利義政1436-1490応仁応仁の乱と東山文化の時代の将軍。
日野富子1440-1496政治力義政正室。応仁の乱期に大きな政治・財政力を持った。
足利義輝1536-1565剣豪将軍永禄の変で討たれた13代将軍。
足利義昭1537-1597最後信長に擁立され、後に追放された最後の将軍。
全体像をもう少し見る
足利将軍家は幕府権力だけでなく、北山文化・東山文化を作った家としても重要です。
義政期の後継問題と守護大名の争いが、室町幕府の権威低下を決定づけました。
最後の将軍義昭が信長に追放され、織田・豊臣・徳川の時代へ移ります。
短く読む
足利尊氏は建武新政から離れ、北朝を支えて室町幕府を開きました。
義満は南北朝合一を実現し、北山文化でも知られます。
後継問題や守護大名の争いが絡み、応仁の乱で幕府権威は大きく揺らぎます。
足利義昭は信長に擁立されますが、後に追放され、室町幕府は終わりました。
出典をたどって深く読む
足利尊氏(1305-1358)が鎌倉幕府を倒し、北朝を立てて開いた室町幕府は、3 代義満の南北朝合一と金閣で頂点を迎えたのち、8 代義政の代の応仁の乱(1467-77)で権威を失い、15 代義昭が織田信長に追放されて滅びた。約 238 年の足利の歴史を一言でいえば「内紛の歴史」である。なぜこの幕府は、開いた当初から滅亡まで内輪の争いが絶えなかったのか — その答えは、強い将軍の不在と、有力守護・一族・側近が将軍位をめぐって繰り返し衝突した、足利政権の構造そのものにある。
足利尊氏は、鎌倉幕府の有力御家人でありながら、1333 年に後醍醐天皇の倒幕軍に呼応して六波羅探題を陥落させ、鎌倉幕府を滅ぼした。その正室赤橋登子(1306-1365)は、鎌倉幕府最後の執権・赤橋(北条)守時の妹であり、倒した側の北条嫡流の出身でありながら、足利将軍家の母となった象徴的な女性である。
だが尊氏は、後醍醐天皇の建武の新政に不満を抱いて反旗を翻し、1336 年の湊川の戦いで楠木正成を破り、北朝(光明天皇)を立てて室町幕府を開く。これによって南北朝の分裂が始まった。足利政権の内紛は、最初から身内で起きている。尊氏の同母弟足利直義(1306-1352)は、幕府初期の行政を担い建武式目の制定で兄を支えたが、執事高師直との対立から観応の擾乱(1350-1352)を引き起こし、一時は南朝に降った末に鎌倉で急死した(毒殺説が有力)。建国まもない幕府が、将軍の弟と執事の争いで割れたのである。
足利幕府が安定の頂点に立つのは、3 代足利義満(1358-1408)の代である。10 歳で将軍となった義満は、管領細川頼之の補佐を経て親政を確立し、1392 年の明徳の和約で南北朝合一を実現して、半世紀以上続いた朝廷の分裂を終わらせた。金閣(鹿苑寺)を建てて北山文化を興し、1401 年には日明貿易を再開して、明の皇帝から「日本国王」と認められた。足利将軍家の権威は、この義満の時代に最も高くそびえた。
しかし強い将軍は続かなかった。6 代足利義教(1394-1441)は、兄義持が後継を定めずに死んだため、石清水八幡宮の籤引きで選ばれて還俗するという異例の即位をした将軍である。専制的な政治と粛清で「万人恐怖」と評された義教は、1441 年、播磨守護赤松満祐の邸での饗宴の最中に暗殺された(嘉吉の乱)。将軍が家臣の手で殺されたこの事件を境に、幕府の権威は急速に弱まっていく。
幕府を決定的に揺るがしたのが、8 代足利義政(1436-1490)の代の応仁の乱(1467-1477)である。義政の後継をめぐる弟義視と子義尚の対立に、管領家である畠山・斯波の家督争いが絡み、京都を主戦場に 11 年も続く大乱となった。京は焼け、幕府の権威は地に落ちた。義政の正室日野富子(1440-1496)は、応仁の乱の最中も乱後も東西両軍に金を貸し付け、米相場や関銭で巨富を築いたとされる、室町屈指の財政家だった。乱の最中に隠居した義政は、東山に山荘を造り、銀閣(慈照寺観音殿)を中心に、茶の湯・水墨画・書院造・能を大成した東山文化を残す。幕府の権威が崩れる傍らで、日本文化の原型が形づくられたのである。
戦国の世に入ると、将軍はもはや天下を統べる存在ではなくなっていた。13 代足利義輝(1536-1565)は、剣豪塚原卜伝から新当流の奥義を授かったと伝わる「剣豪将軍」で、毛利・大友・武田・上杉ら諸大名の和睦を調停して将軍の権威回復を図った。だが 1565 年、三好・松永らの襲撃を受け、自ら太刀を振るって戦い二条御所で討たれた(永禄の変)。
その弟足利義昭(1537-1597)が、室町幕府最後の将軍となる。兄の死後に諸国を流浪した義昭は、織田信長に擁立されて 1568 年に将軍となるが、やがて信長と対立し反信長包囲網を築いた末、1573 年に京都を追放された。ここに室町幕府は滅亡する。尊氏が内紛とともに開いた幕府は、最後もまた、擁立者である信長との争いのなかで幕を閉じた。
右(モバイルでは下)のインタラクティブ家系図で足利将軍家をたどると、この一族の二つの特徴が見えてくる。一つは、婚姻線が示す出発点である。初代尊氏の正室・赤橋登子から伸びる線は、足利将軍家の母方が、自分たちが滅ぼした北条氏の嫡流だったことを物語る。倒した相手の血を引く子が、次の武家政権の将軍になったのである。
もう一つは、将軍位の継承が一本の太い嫡流では貫かれていないことだ。籤引きで選ばれた義教、兄弟で対立した義政の周辺、剣豪将軍から弟へと渡った義輝・義昭 — 図の上で将軍位がたどる経路をたどると、まっすぐ親から子へ下りていく場面より、兄弟・傍系・籤引きといった「横」への移動が目立つ。強い嫡流が育たなかったこと、それが足利幕府の内紛の絶えなかった理由を、系図は静かに示している。