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戦国大名戦国時代〜明治

真田家(信濃真田氏)

信濃国小県郡の国人領主・真田幸隆が武田信玄に仕え、その子真田昌幸徳川軍 7,000 を 2,000 で撃退した上田合戦で名を挙げた一族。昌幸の 2 人の子、兄・信之は徳川方に、弟・信繁(幸村)は豊臣方に分かれ、関ヶ原と大坂の陣で家を分けて存続という戦国末期の知略を体現した。信繁は大坂夏の陣で家康本陣に肉薄する決死の突撃で「日本一の兵(つわもの)」と讃えられ戦死。兄信之は松代藩 10 万石の祖となり、93 歳まで生きた。松代藩は幕末佐久間象山を輩出、明治維新後は伯爵。大河『真田丸』(2016)で広く知られる。

  • 人物
    13
  • 家族構造
    6
  • verified
    78%
  • 信頼度
    ★★
家系図
真田 幸隆真田 昌幸山手殿真田 信之小松姫真田 信繁竹林院真田 幸昌真田 信吉真田 信政本多 忠勝まん村松殿真田信勝真田信重真田信綱真田昌輝清音院殿本多忠朝本多忠政竹林院 (真田信繁正室)真田守信阿梅真田あくりおかね阿昌蒲真田信尹真田信利阿知和於久の方本多忠高真田昌親清寿院清陽院稲垣重綱の娘 (真田信政の正室)松寿院 (真田信政の家女房)小野国子真田信就真田幸道真田信政の娘 (土岐頼長の正室)真田信政の娘 (遠山政亮の正室)真田信政の娘 (小出有重の継室)真田信政の娘 (青山忠雄の正室)三好幸信今出川晴季宇多頼重道鏡慧端

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真田家(信濃真田氏) 主要人物

13 人物のうち先頭 15 名 ・ 6 家族構造
  • 1真田幸隆1513-1574武田信玄重臣
  • 2真田昌幸1547-1611武田二十四将
  • 3山手殿1549-1613真田昌幸正室
  • 4真田信之1566-1658真田昌幸長男
  • 5小松姫1573-1620真田信之正室
  • 6真田信繁1567-1615真田幸村
  • 7竹林院1579-1649真田信繁正室
  • 8真田幸昌1602-1615真田信繁嫡男
  • 9真田信吉1593-1634沼田藩祖
  • 10真田信政1597-1658松代藩 2 代
  • 11真田幸貫1791-1852松代藩 8 代
  • 12徳川家康1543-1616外部参照
  • 13本多忠勝1548-1610外部参照
  • 14まん1592-?SPARQL自動拡張
  • 15村松殿1565-1630SPARQL自動拡張

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もっと詳しく — 真田家(信濃真田氏) の歴史と人物像を読む

真田家の家系図 — 表裏比興の昌幸、日本一の兵・幸村、そして松代 93 歳

家系図ずかん編集部 公開: 2026-04-22 | 品質: Draft(信頼度 ★★)

[戦国大名] [戦国時代〜明治] [日本]

信濃国小県郡の国人領主から出て、武田信玄の重臣として台頭した一族。真田昌幸は武田滅亡後、織田・徳川・北条・上杉を渡り歩きつつ上田城を本拠に独立を保ち、第一次上田合戦で徳川軍 7,000 を 2,000 で撃退、第二次上田合戦でも秀忠軍 38,000 を足止めして関ヶ原遅参させた戦国屈指の謀将。昌幸の 2 人の息子は関ヶ原で家を東西に分けて生き残り、弟信繁(幸村)は大坂の陣で家康本陣に肉薄する決死の突撃で「日本一の兵」と讃えられ戦死、兄信之松代藩 10 万石の祖として 93 歳まで生きた。大河ドラマ『真田丸』(2016)で現代に甦った戦国きっての戦国一家。


目次

  1. 概要
  2. インタラクティブ家系図
  3. 代表人物
  4. 関ヶ原の東西分家 — 家を救う知略
  5. 大坂の陣・真田丸・日本一の兵
  6. 松代真田家の江戸期と幕末
  7. 家紋「六文銭」
  8. 関連する家系図

概要

項目内容
一族名真田家(信濃真田氏、松代真田家)
起源信濃海野氏の支流、小県郡真田郷の国人
戦国期拠点上田城(長野県上田市、1583-1616)
江戸期拠点松代城(長野県長野市、1622-1871)
家紋六文銭(六連銭)
石高上田 9.5 万石 → 松代 13 万石 → 10 万石

真田家は信濃海野氏の庶流で、真田幸隆が武田信玄に仕えて信濃攻略の先鋒を務めた。その子昌幸が独立勢力として上田城を本拠に確立、徳川軍を 2 度撃退する武功で名を馳せた。

1600 年の関ヶ原では、昌幸と次男信繁が西軍、長男信之が東軍と家を二分する決断を下す。結果、西軍敗戦で昌幸・信繁は紀伊九度山に配流、信之が真田の家名を継承。14 年の九度山幽閉の末、1614 年の大坂冬の陣で信繁が大坂城に入り、翌 1615 年夏の陣徳川家康本陣への決死の突撃を敢行、家康を自害寸前まで追い詰めた。信繁は力尽きて戦死、しかし島津家久が「真田日本一の兵」と讃えた伝説を残した。

信之は徳川体制下で上田 → 松代 10 万石の大名として存続、93 歳の長寿を保って 1658 年に没す。松代真田家は明治維新まで続き、1884 年伯爵

2016 年 NHK 大河ドラマ『真田丸』(三谷幸喜脚本)で全国的に再評価されている。


インタラクティブ家系図

真田幸隆(武田信玄重臣)
  │
  └─ 真田昌幸(上田合戦、表裏比興の者、九度山配流)
       ║ 山手殿
       │
       ├─ 真田信之(関ヶ原東軍、松代藩初代、93 歳長寿)
       │    ║ 小松姫(本多忠勝娘=家康養女)
       │    │    └─ 真田信政(松代 2 代)
       │    │
       │    └─(側室)─ 真田信吉(沼田藩祖)
       │
       └─ 真田信繁(幸村、関ヶ原西軍、大坂の陣で日本一の兵)
            ║ 竹林院(大谷吉継娘)
            └─ 真田幸昌(大坂の陣で戦死、14 歳)

代表人物

1. 真田昌幸(1547 頃 -1611)— 表裏比興の者

幸隆の三男、当初は武田信玄の重臣。1582 年武田滅亡で独立勢力となり、織田・徳川・北条・上杉を巧みに渡り歩いて上田城を本拠に確保した。1585 年第一次上田合戦で徳川軍 7,000 を 2,000 で撃退、家康を激怒させた。1590 年に秀吉に臣従して 3 万 8000 石。

1600 年第二次上田合戦では、徳川秀忠の 38,000 を上田城で足止めし、秀忠の関ヶ原遅参の原因を作った。しかし関ヶ原本戦では西軍敗北、昌幸は紀伊九度山(和歌山)に配流された。14 年の配所暮らしの末、1611 年に 65 歳で病没。

秀吉が昌幸を「表裏比興の者」(裏表のある信用できない男)と評した言葉は、逆に昌幸の戦略眼の深さの証明として後世に語り継がれた。

2. 真田信繁(幸村)(1567 頃 -1615)— 日本一の兵

昌幸の次男、母は山手殿。兄信幸(信之)と同じく武田家の人質として過ごし、1586 年以降は豊臣秀吉の馬廻衆として大坂で出仕(知行 19,000 石)。正室は大谷吉継の娘・竹林院

1600 年関ヶ原で父と西軍につき、敗戦後に父と九度山に配流。14 年の流浪生活の末、1614 年大坂冬の陣で大坂城入り、城の南側に**丸馬出し「真田丸」**を構築、攻め寄せる徳川軍を 1 万の損害を与えて撃退した。

1615 年夏の陣では茶臼山に布陣、家康本陣に 3 度の決死突撃を敢行。家康は切腹を覚悟したと記録される。しかし衆寡敵せず力尽き、安居神社(現・大阪市天王寺区)近くで戦死、享年 49。

戦後、島津家久の書状に「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、脇坂安治いいしむりに候」と記され、その武勇が全国に知れ渡った。

「真田幸村」の名は 1672 年刊行の軍記物『難波戦記』が初出で、同時代史料には見られない後世の創作名。しかし現代ではこの「幸村」が英雄の呼称として定着している。

3. 真田信之(1566-1658)— 93 歳の松代藩祖

昌幸の長男、母は山手殿。当初は武田家の人質として出仕、武田滅亡後は父とともに各勢力を渡り歩く。徳川四天王・本多忠勝の娘・小松姫(家康養女)と婚姻したことで徳川との関係を深めた。

1600 年関ヶ原で、父昌幸・弟信繁が西軍につく中、単身東軍に与する決断を下した。父の上田城攻撃の際には、涙を流しながら父の助命を家康に嘆願、父弟の命を救った。この**「家を東西に分ける」戦略**は真田家の家の存続を実現した。

戦後は上田 9.5 万石、1622 年に信濃松代 10 万石に移封、松代真田家の祖となる。3 代将軍家光・4 代家綱の時代まで生き、明暦の大火(1657)も経験、1658 年に 93 歳で没す。戦国武将としては異例の長寿で、「天下の飾り」と称された。

4. 小松姫(1573-1620)— 沼田城事件の気迫

本多忠勝の娘、徳川家康の養女。1589 年に真田信之に嫁ぐ。1600 年関ヶ原前、九度山へ向かう舅・昌幸が沼田城(信之の城)に立ち寄ろうとしたところ、小松姫は武装して門前に立ち、「敵味方となった今、お通しできぬ」と追い返した。後日、昌幸を別室で丁重にもてなしたという「沼田城事件」の逸話は、気迫と情けを兼ね備えた戦国女性像として有名。1620 年に 48 歳で没、戒名大蓮院

5. 真田幸貫(1791-1852)— 松代藩の幕末の政治家

松代藩 8 代藩主。実父は老中・松平定信(白河藩主、寛政の改革の立役者)。幕末期に老中として幕政に参画、佐久間象山を抜擢してペリー来航前に西洋軍事研究を促した。その象山の弟子には吉田松陰・勝海舟・坂本龍馬がいる。松代真田家は派手な幕末維新の舞台には立たなかったが、象山を生み出した知の拠点として静かに歴史を動かした。


関ヶ原の東西分家 — 家を救う知略

1600 年 7 月、石田三成挙兵の報せを受け、真田昌幸・信之・信繁の 3 人は下野犬伏(現・栃木県佐野市)で密議を開いた。

犬伏の別れ(1600 年 7 月 21 日頃)

  • 昌幸と信繁: 「我らは豊臣の恩顧、西軍につく」
  • 信之: 「我が妻は本多忠勝の娘、東軍につく」

家を東西に分ければ、どちらが勝っても真田家は生き残るという冷徹な戦略判断。そこで父と次男が西軍、長男が東軍に分かれ、それぞれの陣営で全力を尽くすことを誓って別れた。これを「犬伏の別れ」と呼ぶ。

結果

  • 関ヶ原: 東軍勝利
  • 昌幸・信繁: 九度山配流(死罪免除は信之の嘆願のおかげ)
  • 信之: 上田城主として家を継承、徳川方として生き残る

この東西分家戦略は戦国武家の「家の存続」への執念を象徴する事例として、現代でもリスク分散の教科書として語られる。


大坂の陣・真田丸・日本一の兵

九度山幽閉と大坂入城(1600-1614)

九度山での 14 年間、昌幸は再起を期しつつも 1611 年に没した。残された信繁は 1614 年、大坂の豊臣方から招かれて秀頼のもとに馳せ参じる。家康の追及を振り切って九度山を脱出、大坂城入りを果たした。

真田丸(1614 年冬の陣)

信繁は大坂城の弱点である南側に**三日月型の丸馬出し「真田丸」**を構築。冬の陣で家康の本軍が攻撃を仕掛けると、鉄砲の三段撃ちで迎撃、徳川軍に 15,000 以上の損害を与えたとされる。この大功で信繁は「真田幸村」と噂され、徳川方からも恐れられた。

和議で真田丸は破却されたが、この戦いで信繁の武名は全国に轟いた。

夏の陣・家康本陣突撃(1615 年 5 月 7 日)

和議の無効を理由に再戦となった夏の陣。5 月 7 日、信繁は天王寺・茶臼山に布陣、徳川家康の本陣に 3 度の決死突撃を敢行。家康の馬印が倒され、家康は切腹を覚悟したと伝わる。

しかし後続の兵力不足で信繁は孤立、安居神社近くで討死した。享年 49。戦後、信繁の首級を取った越前松平家臣・西尾宗次は、戦功を誇ったが「あの真田に、家康様が追いつめられた」という話の方が広まった。

「真田日本一の兵」

大坂の陣終結直後の島津家久(島津義弘の子)の書状に:

「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、脇坂安治いいしむりに候」 (真田は日本一の兵であり、古い物語にもこれほどの者はいないと、脇坂安治が話していた)

とあり、敵味方から賞賛された伝説の武将として後世に刻まれた。


松代真田家の江戸期と幕末

信之から 93 歳長寿へ

信之は 1622 年に松代 10 万石へ移り、以後松代真田家は11 代続いて明治まで存続。信之自身は 93 歳まで生きて 1658 年に没した。

松代の政治家・佐久間象山

幕末の 8 代真田幸貫は老中として幕政に参画、佐久間象山(1811-1864)を抜擢した。象山は松代藩士で、ペリー来航前から西洋の軍事・兵学・海防論を研究、1853 年以降は江戸で弟子をとった。

象山の弟子には吉田松陰・勝海舟・坂本龍馬・河井継之助などがおり、近代日本を作った知識人の祖とも言える。松代真田家は幕末の表舞台には立たなかったが、象山の育ての親として歴史に貢献した。

明治以降

1869 年版籍奉還で藩知事、1871 年廃藩置県で藩廃止。1884 年、14 代幸民(最後の藩主)が伯爵に叙爵。真田家は現代まで続く。


家紋「六文銭」

六文銭(六連銭)は、6 つの銭貨を 2 列 3 段に配した意匠。仏教の六道銭(三途の川の渡し賃として棺に入れる 6 枚の銭)に由来し、死を覚悟して戦うという強烈な象徴。

真田幸隆が武田信玄に仕えたときから使用され、信繁の大坂の陣・「赤備え」とともに戦場で恐れられた。現代でも長野県・上田市・長野市松代地区の観光シンボルとして、また『真田丸』(2016)以降は全国的な戦国ロマンの象徴として認知されている。


関連する家系図

  • 武田家 — 幸隆・昌幸は信玄の重臣、武田二十四将として仕える
  • 徳川家 — 上田合戦 2 度撃退、信之が家康養女と婚姻、以後松代藩
  • 豊臣家 — 信繁は秀吉馬廻衆、大坂の陣で豊臣方として戦死
  • 織田家 — 武田家臣として長篠・甲州征伐で信長と対立
  • 上杉家 — 武田滅亡後、昌幸は一時上杉景勝に属した
  • 大谷家 — 信繁正室・竹林院の実家
  • 本多家 — 小松姫の実家(本多忠勝)
  • 松平家(白河) — 真田幸貫の実父は松平定信

出典

ランク A

  • Wikidata: Q1144171(昌幸)、Q3948081(信繁)、Q1141305(信之)、2026-04-22 verified

ランク B

  • 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館
  • 平山優『真田信繁(幸村)』KADOKAWA、2015

ランク C(Wikipedia、2026-04-22 確認)


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改訂履歴

日付内容
2026-04-22初版(Draft、Phase 1 第 10 件、戦国武家シリーズ 10 件完了)

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プリセット ID: sanada / schemaVersion: 1.3 / 更新: 2026-05-01T00:00:00+09:00