武田家臣から独立勢力へ
幸隆・昌幸が信濃で足場を作り、武田滅亡後に上田城を軸に自立します。
真田家は武田家臣から独立し、関ヶ原で東西に分かれます。信繁の大坂での最期と、信之系の松代藩存続を並べると、家を分けて残す戦略が見えます。
昌幸の上田合戦、信之の存続、信繁の真田丸を一枚で追う家
最初に見るところ
幸隆・昌幸が信濃で足場を作り、武田滅亡後に上田城を軸に自立します。
昌幸・信繁は西軍、信之は東軍に分かれ、敗戦後も家名を残します。
信繁は大坂で戦死し、信之系は松代藩として幕末まで続きます。
関係をしぼって見る
武田家臣から信濃の独立勢力へ進む。
関ヶ原で兄弟が東西に分かれる。
信之系が松代藩として続く。
信繁系は大坂の陣で豊臣方として戦う。
小松姫婚姻と上田合戦で徳川と深く関わる。
系図でひと目でたどる
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昌幸が独立勢力として動き始める。
徳川軍を上田で撃退し、真田家の名を高める。
信之は東軍、昌幸・信繁は西軍へ分かれる。
徳川秀忠軍を足止めする。
大坂冬の陣で信繁が豊臣方として奮戦する。
信繁が家康本陣へ迫り戦死する。
信之系が松代藩として続く。
まず覚える人だけ
真田幸隆1513-1574土台武田信玄に仕え、真田家再興の土台を作った。
真田昌幸1547-1611中心上田合戦で名を上げ、関ヶ原では西軍についた。
真田信之1566-1658存続東軍につき、真田家を松代藩として残した。
小松姫1573-1620徳川接続本多忠勝の娘で家康養女。信之に嫁ぐ。
真田信繁1567-1615大坂大坂の陣で豊臣方として戦い、日本一の兵と称された。
竹林院1579-1649豊臣方接続信繁の正室。九度山・大坂の流れを支える。
真田幸昌1602-1615大坂系信繁の長男。大坂夏の陣で若くして戦死した。
真田幸貫1791-1852幕末松代藩8代。佐久間象山を抜擢した幕末期の人物。
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昌幸・信繁は西軍、信之は東軍に分かれました。敗れた側の物語と、残った側の家を同時に見るのが真田家の要点です。
信繁は大坂で戦死しますが、兄信之の系統は松代藩として続きます。
真田家は武田家臣から始まり、徳川と敵対・婚姻し、最後は豊臣方としても知られます。
短く読む
幸隆は武田信玄に仕え、真田家再興の起点となりました。
昌幸は武田滅亡後に自立し、上田合戦で徳川軍を退けます。
信之は東軍、昌幸・信繁は西軍となり、家を分ける選択をしました。
信繁は大坂で戦死し、信之系は松代藩として続きました。
出典をたどって深く読む
信濃国小県郡の国人領主から出て、武田信玄の重臣として台頭した一族。真田昌幸は武田滅亡後、織田・徳川・北条・上杉を渡り歩きつつ上田城を本拠に独立を保ち、第一次上田合戦で徳川軍 7,000 を 2,000 で撃退、第二次上田合戦でも秀忠軍 38,000 を足止めして関ヶ原遅参させた戦国屈指の謀将。昌幸の 2 人の息子は関ヶ原で家を東西に分けて生き残り、弟信繁(幸村)は大坂の陣で家康本陣に肉薄する決死の突撃で「日本一の兵」と讃えられ戦死、兄信之は松代藩 10 万石の祖として 93 歳まで生きた。大河ドラマ『真田丸』(2016)で現代に甦った戦国きっての戦国一家。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 一族名 | 真田家(信濃真田氏、松代真田家) |
| 起源 | 信濃海野氏の支流、小県郡真田郷の国人 |
| 戦国期拠点 | 上田城(長野県上田市、1583-1616) |
| 江戸期拠点 | 松代城(長野県長野市、1622-1871) |
| 家紋 | 六文銭(六連銭) |
| 石高 | 上田 9.5 万石 → 松代 13 万石 → 10 万石 |
真田家は信濃海野氏の庶流で、真田幸隆が武田信玄に仕えて信濃攻略の先鋒を務めた。その子昌幸が独立勢力として上田城を本拠に確立、徳川軍を 2 度撃退する武功で名を馳せた。
1600 年の関ヶ原では、昌幸と次男信繁が西軍、長男信之が東軍と家を二分する決断を下す。結果、西軍敗戦で昌幸・信繁は紀伊九度山に配流、信之が真田の家名を継承。14 年の九度山幽閉の末、1614 年の大坂冬の陣で信繁が大坂城に入り、翌 1615 年夏の陣で徳川家康本陣への決死の突撃を敢行、家康を自害寸前まで追い詰めた。信繁は力尽きて戦死、しかし島津忠恒(後の家久)が「真田日本一の兵」と讃えた書状を残した。
兄信之は徳川体制下で上田 → 松代 10 万石の大名として存続、93 歳の長寿を保って 1658 年に没す。松代真田家は明治維新まで続き、1884 年伯爵。
2016 年 NHK 大河ドラマ『真田丸』(三谷幸喜脚本)で全国的に再評価されている。
幸隆の三男、当初は武田信玄の重臣。1582 年武田滅亡で独立勢力となり、織田・徳川・北条・上杉を巧みに渡り歩いて上田城を本拠に確保した。1585 年第一次上田合戦で徳川軍(約 7,000)を寡兵(約 2,000、一説に約 1,200)で撃退し、家康を激怒させた。1590 年に秀吉に臣従して 3 万 8000 石。
1600 年第二次上田合戦では、徳川秀忠の 38,000 を上田城で翻弄した。秀忠の関ヶ原遅参の一因とされる(遅参には家康の急な着陣命令や悪天候も影響したとされ、諸説ある)。しかし関ヶ原本戦では西軍敗北、昌幸は紀伊九度山(和歌山)に配流された。14 年の配所暮らしの末、1611 年に 65 歳で病没。
秀吉が昌幸を「表裏比興の者」(裏表のある信用できない男)と評した言葉は、逆に昌幸の戦略眼の深さの証明として後世に語り継がれた。
昌幸の次男、母は山手殿。兄信幸(信之)と同じく武田家の人質として過ごし、1586 年以降は豊臣秀吉の馬廻衆として大坂で出仕(知行 19,000 石)。正室は大谷吉継の娘・竹林院。
1600 年関ヶ原で父と西軍につき、敗戦後に父と九度山に配流。14 年の流浪生活の末、1614 年大坂冬の陣で大坂城入り、城の南側に丸馬出し「真田丸」を構築、攻め寄せる徳川軍に大きな損害を与えて撃退したと伝わる(損害数には諸説あり)。
1615 年夏の陣では茶臼山に布陣、家康本陣に 3 度の決死突撃を敢行。家康は切腹を覚悟したと記録される。しかし衆寡敵せず力尽き、安居神社(現・大阪市天王寺区)近くで戦死、享年 49。
戦後、島津忠恒(後の家久)の書状に「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、脇坂安治いいしむりに候」と記され、その武勇が全国に知れ渡った。
「真田幸村」の名は 1672 年刊行の軍記物『難波戦記』が初出で、同時代史料には見られない後世の創作名。しかし現代ではこの「幸村」が英雄の呼称として定着している。
昌幸の長男、母は山手殿。当初は武田家の人質として出仕、武田滅亡後は父とともに各勢力を渡り歩く。徳川四天王・本多忠勝の娘・小松姫(徳川家の養女と伝わる)と婚姻したことで徳川との関係を深めた。
1600 年関ヶ原で、父昌幸・弟信繁が西軍につく中、単身東軍に与する決断を下した。父の上田城攻撃の際には、涙を流しながら父の助命を家康に嘆願、父弟の命を救った。この「家を東西に分ける」戦略は真田家の家の存続を実現した。
戦後は上田 9.5 万石、1622 年に信濃松代 10 万石に移封、松代真田家の祖となる。3 代将軍家光・4 代家綱の時代まで生き、明暦の大火(1657)も経験、1658 年に 93 歳で没す。戦国武将としては異例の長寿で、「天下の飾り」と称された。
本多忠勝の娘で、徳川家(家康あるいは秀忠)の養女になったと伝わる(諸説あり)。1589 年に真田信之に嫁ぐ。関ヶ原前、九度山へ向かう舅・昌幸が沼田城(信之の城)に立ち寄ろうとした際、小松姫が武装して門前で追い返し、後日は丁重にもてなしたという「沼田城事件」の逸話で知られる(後世の逸話とされ、実在性には疑問も呈される)。1620 年に 48 歳で没、戒名大蓮院。
松代藩 8 代藩主。実父は老中・松平定信(白河藩主、寛政の改革の立役者)。幕末期に老中として幕政に参画、佐久間象山を抜擢してペリー来航前に西洋軍事研究を促した。その象山の弟子には吉田松陰・勝海舟・坂本龍馬がいる。松代真田家は派手な幕末維新の舞台には立たなかったが、象山を生み出した知の拠点として静かに歴史を動かした。
1600 年 7 月、石田三成挙兵の報せを受け、真田昌幸・信之・信繁の 3 人は下野犬伏(現・栃木県佐野市)で密議を開いた。
家を東西に分ければ、どちらが勝っても真田家は生き残るという冷徹な戦略判断。そこで父と次男が西軍、長男が東軍に分かれ、それぞれの陣営で全力を尽くすことを誓って別れた。これを「犬伏の別れ」と呼ぶ。
この東西分家戦略は戦国武家の「家の存続」への執念を象徴する事例として、現代でもリスク分散の教科書として語られる。
九度山での 14 年間、昌幸は再起を期しつつも 1611 年に没した。残された信繁は 1614 年、大坂の豊臣方から招かれて秀頼のもとに馳せ参じる。家康の追及を振り切って九度山を脱出、大坂城入りを果たした。
信繁は大坂城の弱点である南側に三日月型の丸馬出し「真田丸」を構築。冬の陣で家康の本軍が攻撃を仕掛けると、鉄砲の三段撃ちで迎撃、徳川軍に 15,000 以上の損害を与えたとされる。この大功で信繁は「真田幸村」と噂され、徳川方からも恐れられた。
和議で真田丸は破却されたが、この戦いで信繁の武名は全国に轟いた。
和議の無効を理由に再戦となった夏の陣。5 月 7 日、信繁は天王寺・茶臼山に布陣、徳川家康の本陣に 3 度の決死突撃を敢行。家康の馬印が倒され、家康は切腹を覚悟したと伝わる。
しかし後続の兵力不足で信繁は孤立、安居神社近くで討死した。享年 49。戦後、信繁の首級を取った越前松平家臣・西尾宗次は、戦功を誇ったが「あの真田に、家康様が追いつめられた」という話の方が広まった。
大坂の陣終結直後の島津忠恒(後の家久、島津義弘の子)の書状に:
「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、脇坂安治いいしむりに候」 (真田は日本一の兵であり、古い物語にもこれほどの者はいないと、脇坂安治が話していた)
とあり、敵味方から賞賛された伝説の武将として後世に刻まれた。
信之は 1622 年に松代 10 万石へ移り、以後松代真田家は11 代続いて明治まで存続。信之自身は 93 歳まで生きて 1658 年に没した。
幕末の 8 代真田幸貫は老中として幕政に参画、佐久間象山(1811-1864)を抜擢した。象山は松代藩士で、ペリー来航前から西洋の軍事・兵学・海防論を研究、1853 年以降は江戸で弟子をとった。
象山の弟子には吉田松陰・勝海舟・坂本龍馬・河井継之助などがおり、近代日本を作った知識人の祖とも言える。松代真田家は幕末の表舞台には立たなかったが、象山の育ての親として歴史に貢献した。
1869 年版籍奉還で藩知事、1871 年廃藩置県で藩廃止。1884 年、14 代幸民(最後の藩主)が伯爵に叙爵。真田家は現代まで続く。
六文銭(六連銭)は、6 つの銭貨を 2 列 3 段に配した意匠。仏教の六道銭(三途の川の渡し賃として棺に入れる 6 枚の銭)に由来し、死を覚悟して戦うという強烈な象徴。
真田幸隆が武田信玄に仕えたときから使用され、信繁の大坂の陣・「赤備え」とともに戦場で恐れられた。現代でも長野県・上田市・長野市松代地区の観光シンボルとして、また『真田丸』(2016)以降は全国的な戦国ロマンの象徴として認知されている。