播磨の小寺家臣から秀吉軍師へ
官兵衛が中国攻めで台頭し、豊臣政権の参謀役になります。
黒田家は官兵衛の軍師像だけでなく、長政の関ヶ原、福岡藩の成立、江戸期の騒動と幕末の長溥までを一本の家の流れで見ると整理できます。
官兵衛の軍師役から、長政の関ヶ原、福岡藩の継承へ続く家
最初に見るところ
官兵衛が中国攻めで台頭し、豊臣政権の参謀役になります。
調略と武功で筑前を得て、福岡藩を立てます。
黒田騒動を越え、長溥の蘭学奨励へ続きます。
関係をしぼって見る
播磨小寺家臣から秀吉方へ転じる。
官兵衛と光、長政が福岡藩の基礎を作る。
徳川接続と黒田騒動を経て江戸期へ入る。
家譜編纂や蘭学奨励へつながる。
最後の藩主から華族期へ続く。
系図でひと目でたどる
家系図を時間で読む
官兵衛が荒木村重に幽閉される。
秀吉の中国攻めで官兵衛の参謀役が目立つ。
豊前中津で黒田家の大名化が進む。
長政が東軍主力として西軍切り崩しに関わる。
筑前福岡藩の基礎を作る。
忠之期に家臣対立が幕府へ露見する。
幕末に蘭学・洋学奨励へ進む。
まず覚える人だけ
黒田職隆1524-1585土台官兵衛の父。播磨で黒田家の土台を支える。
黒田孝高1546-1604軍師官兵衛・如水。秀吉の軍師として知られる中心人物。
櫛橋光1553-1627家中の軸官兵衛の正室。長政の母として家を支える。
黒田長政1568-1623立藩関ヶ原で東軍に属し、筑前福岡藩を立てた。
栄姫1585-1635徳川接続家康養女として長政に嫁いだ。
黒田忠之1602-1654騒動福岡藩2代。黒田騒動の時代の藩主。
黒田光之1628-1707文治福岡藩3代。貝原益軒を再仕官させる。
黒田長溥1811-1887幕末幕末の福岡藩主。蘭学・洋学を奨励した。
全体像をもう少し見る
官兵衛の軍師役と、長政の関ヶ原後の立藩を分けると黒田家の流れが見えます。
栄姫の婚姻も含め、黒田家は豊臣から徳川へ現実的に接続しました。
黒田騒動や光之・長溥を見ることで、戦国後の福岡藩主家としての流れも把握できます。
短く読む
黒田孝高は播磨の小寺家臣から秀吉に転じ、中国攻めなどで参謀役を担いました。
長政は関ヶ原で東軍として働き、戦後に筑前を得て福岡藩を立てました。
忠之期の黒田騒動を経ながらも、黒田家は福岡藩主家として続きます。
長溥は蘭学や洋学を奨励し、幕末の開明的な藩主として知られます。
出典をたどって深く読む
播磨の小寺家臣から身を起こし、黒田官兵衛(孝高、如水)が豊臣秀吉の軍師として中国攻めから九州征伐・朝鮮出兵まで参謀役を務めた一族。子の長政は関ヶ原で東軍主力として西軍を切り崩し、戦後筑前 52 万 3000 石の福岡藩を立藩。江戸期を通じて福岡藩主家として続き、幕末 11 代長溥は薩摩・島津家から養子入りした蘭学奨励の英明君主として知られる。福岡黒田家は 1884 年の華族令で侯爵に列した(長知の長男・長成が初叙)。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 一族名 | 黒田家(福岡黒田家、筑前黒田家) |
| 起源 | 播磨国姫路、小寺家臣から(先祖は近江佐々木氏とも) |
| 拠点 | 福岡城(福岡藩、1601-1871) |
| 家紋 | 黒田藤巴 |
| 石高 | 52 万 3000 石(立藩時) → 47 万 3000 石(後期) |
| キリシタン | 官兵衛はドン・シメオンの洗礼名 |
| 明治叙爵 | 侯爵(1884) |
播磨国姫路で生まれ、若くして父職隆から家督を継いで小寺家臣として頭角を現した。1577 年、織田信長と毛利輝元の中国争奪戦の中で羽柴秀吉に与し、以後秀吉の参謀として中国攻め全般に関わる。三木城兵糧攻め・備中高松城水攻め・鳥取城兵糧攻めなどの戦略を立案・実行したと伝わる。
1578 年、荒木村重の謀反で説得に向かった有岡城で幽閉され、1 年あまり生死不明となる。信長は黒田の裏切りと判断して幼い松寿丸(後の長政)の処刑を命じたが、軍師竹中半兵衛が独断で松寿丸を匿って助命した逸話で名高い。
秀吉政権下では九州征伐の戦功で豊前中津 12 万石。ドン・シメオンの洗礼名を持つキリシタンでもあり、有岡幽閉中も信仰を保ったとされる。秀吉死後の関ヶ原では九州で諸城を制圧して独自の勢力拡大を試みたとも、息子長政の東軍参戦を背後で支えたともされる。1604 年京都伏見で 59 歳で没した。
官兵衛の長男。父の有岡幽閉中に殺害命令を受けながら竹中半兵衛に匿われた経緯を持つ。秀吉子飼いとして九州征伐・朝鮮出兵で武将として育ち、黒田二十四騎の中核となる。
秀吉死後は石田三成と対立、徳川家康に接近。家康養女栄姫との婚姻で家康陣営入りを明確にし、関ヶ原の戦い(1600)では東軍主力として戦う。特に小早川秀秋・吉川広家ら西軍諸将への寝返り工作は長政の主導とされ、勝敗の決定的要因となった。
戦功で筑前 52 万 3000 石を与えられ、博多・那珂川下流域に福岡城を築城(1601-1607、城下町を黒田家ゆかりの地・備前福岡(現・岡山県瀬戸内市)にちなみ「福岡」と命名)。福岡藩の藩制を整備し、九州西部の有力大名となった。1623 年京都報恩寺で 56 歳で没。
長政の長男、母は家康養女栄姫。1623 年に 52 万 3000 石を相続後、父の遺命で弟へ分知(秋月藩 5 万石・直方藩 4 万石)し 43 万 3000 余石となった(47 万 3000 石は後年 6 代の代に直方藩 4 万石が本藩へ還付されて成立した最終的な表高)。家臣の栗山大膳との対立から幕府に騒動が露見した黒田騒動(1632 年)は江戸初期の代表的お家騒動の一つで、藩存続の危機となったが、幕府裁定で藩は存続、栗山は南部藩預けとなった。
福岡藩 11 代藩主。島津重豪(薩摩藩 8 代)の子(出生順は諸説あり、ja.wikipedia は十三男、kotobank は九男とする)で、黒田家に養子入りした。蘭学・洋学を奨励し、精煉所を設立して洋式工業を試みる。九州諸藩の中で薩摩・佐賀・福岡が幕末の開明藩として並び称されたのも長溥の功績による。1887 年に没し、彼の侯爵は没後の贈位(贈侯爵)である。
長知の長男、1884 年(明治 17)7 月 7 日、華族令により侯爵を叙爵した(継承ではなく初叙)。貴族院議員として活動、貴族院副議長を長く務めた。
播磨小寺家臣から羽柴秀吉に転じた官兵衛が中国攻めの参謀として活躍、有岡幽閉を経て豊臣政権下で豊前中津 12 万石。秀吉子飼いの長政は朝鮮出兵で武功を重ねた。
秀吉死後、長政は徳川家康に接近、関ヶ原で東軍主力として小早川秀秋・吉川広家への調略を主導し勝敗を決した。戦後筑前 52 万 3000 石で福岡藩を立藩、福岡城を築城。
2 代忠之の黒田騒動(1632)で減封・改易の危機を経るも幕府裁定で藩は存続。3 代光之は貝原益軒を登用、藩学を整備した。
11 代長溥は島津重豪の子で薩摩から養子入り、蘭学奨励・精煉所設立で開明藩を志向。最後の藩主 12 代長知は版籍奉還・廃藩置県を経た。福岡黒田家の侯爵叙爵は 1884 年の華族令で長知の長男長成が受けたのが最初で、長知自身の侯爵は 1902 年(明治 35)の没時に追贈された。
藤の蔓を巴形に三方に渦巻かせた意匠で、戦国期の播磨小寺家から拝領したと伝わる。福岡藩黒田家の象徴として、福岡城・藩寺院(崇福寺等)・現代の福岡市の徽章意匠などに広く用いられている。
「酒は呑め呑め 呑むならば 日の本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」と歌われる黒田節は、福岡藩黒田家の武士道精神を表す民謡として今に伝わる。豊臣秀吉が福島正則に下賜した名槍「日本号」を、黒田家臣母里太兵衛が酒席の所望で福島から呑み取ったという逸話に由来するとされる。
右(モバイルでは下)のインタラクティブ家系図で福岡藩主の縦線をたどると、黒田家の血筋が江戸時代の途中で「外から接ぎ木」されていることに気づく。軍師官兵衛から初代藩主長政、2 代忠之、3 代光之へと、はじめは父子の縦線がまっすぐ続く。ところが幕末に近づくと、11 代長溥は薩摩の島津重豪の子、12 代長知は伊勢津藩主・藤堂高猷の子と、藩主が他家から養子として入ってくる。図で藩主の系統をたどると、黒田の家名は続いていても、その血は薩摩や伊勢から幾度も入れ替わっている。大名家の「家の存続」が、必ずしも血の連続を意味しないことを、この縦線はよく示している。
対照的に印象深いのが、出発点の婚姻線である。官兵衛は正室櫛橋光と終生添い遂げ、戦国大名としては珍しく側室を持たなかった。図でも、官兵衛から伸びる婚姻線は一本きりだ。一方、その子長政の継室栄姫は徳川家康の養女であり、黒田家が関ヶ原を経て徳川の世に組み込まれていく転換点が、この一本の婚姻線に刻まれている。