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戦国大名戦国時代〜明治

黒田家(福岡藩主家)

播磨国の小寺家臣から身を起こし、黒田官兵衛(孝高、如水)が豊臣秀吉の軍師として中国攻め・九州征伐・小田原攻め・朝鮮出兵で活躍した一族。子の長政は関ヶ原で東軍主力として西軍を切り崩し、戦後筑前 52 万石(後 47 万石)の福岡藩を立藩。江戸期を通じて福岡藩主家として続き、11 代長溥は幕末の蘭学奨励の英明君主として知られる。明治維新後は侯爵として華族に列した。

  • 人物
    10
  • 家族構造
    5
  • verified
    88%
  • 信頼度
    ★★★
家系図
黒田 職隆黒田 孝高櫛橋 光黒田 長政栄姫黒田 忠之黒田 光之黒田熊之助明石岩姫黒田利高黒田職隆の娘 (浦上誠宗の妻)黒田長興黒田高政黒田徳黒田亀市松姫村上氏 (黒田光之の側室)黒田重隆小寺則職母里能登守の娘 (黒田職隆の側室)妻鹿氏 (黒田重隆の妻)黒田利則黒田直之妙円尼香山妙春心誉春勢保科正直糸姫 (蜂須賀正勝の娘)長徳院 (黒田長政側室)黒田菊子

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黒田家(福岡藩主家) 主要人物

10 人物のうち先頭 15 名 ・ 5 家族構造
  • 1黒田職隆1524-1585官兵衛父
  • 2黒田孝高1546-1604勘解由次官
  • 3櫛橋光1553-1627官兵衛正室
  • 4黒田長政1568-1623甲斐守
  • 5栄姫1585-1635長政継室
  • 6黒田忠之1602-1654福岡藩 2 代
  • 7黒田光之1628-1707福岡藩 3 代
  • 8黒田長溥1811-1887福岡藩 11 代
  • 9黒田長知1839-1902福岡藩最後の藩主
  • 10黒田長成1867-1939侯爵
  • 11黒田熊之助1582-1597SPARQL自動拡張
  • 12明石岩姫1532-1560SPARQL自動拡張
  • 13黒田利高1554-1596SPARQL自動拡張
  • 14黒田職隆の娘 (浦上誠宗の妻)SPARQL自動拡張
  • 15黒田長興1610-1665SPARQL自動拡張

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もっと詳しく — 黒田家(福岡藩主家) の歴史と人物像を読む

黒田家の家系図 — 秀吉軍師・官兵衛から福岡藩 47 万石まで

家系図ずかん編集部 公開: 2026-05-01 | 品質: Draft(信頼度 ★★)

[戦国大名] [戦国時代〜明治] [日本・播磨・豊前・筑前]

播磨の小寺家臣から身を起こし、黒田官兵衛(孝高、如水)が豊臣秀吉の軍師として中国攻めから九州征伐・朝鮮出兵まで参謀役を務めた一族。子の長政は関ヶ原で東軍主力として西軍を切り崩し、戦後筑前 52 万 3000 石の福岡藩を立藩。江戸期を通じて福岡藩主家として続き、幕末 11 代長溥は薩摩・島津家から養子入りした蘭学奨励の英明君主として知られる。明治維新後は侯爵として華族に列した。


概要

項目内容
一族名黒田家(福岡黒田家、筑前黒田家)
起源播磨国姫路、小寺家臣から(先祖は近江佐々木氏とも)
拠点福岡城(福岡藩、1601-1871)
家紋黒田藤巴
石高52 万 3000 石(立藩時) → 47 万 3000 石(後期)
キリシタン官兵衛はドン・シメオンの洗礼名
明治叙爵侯爵(1884)

代表人物

1. 黒田孝高/官兵衛/如水(1546-1604)— 戦国三軍師の一人

播磨国姫路で生まれ、若くして父職隆から家督を継いで小寺家臣として頭角を現した。1577 年、織田信長と毛利輝元の中国争奪戦の中で羽柴秀吉に与し、以後秀吉の参謀として中国攻め全般に関わる。三木城兵糧攻め備中高松城水攻め鳥取城兵糧攻めなどの戦略を立案・実行したと伝わる。

1578 年、荒木村重の謀反で説得に向かった有岡城で幽閉され、1 年あまり生死不明となる。信長は黒田の裏切りと判断して幼い松寿丸(後の長政)の処刑を命じたが、軍師竹中半兵衛が独断で松寿丸を匿って助命した逸話で名高い。

秀吉政権下では九州征伐の戦功で豊前中津 12 万石ドン・シメオンの洗礼名を持つキリシタンでもあり、有岡幽閉中も信仰を保ったとされる。秀吉死後の関ヶ原では九州で諸城を制圧して独自の勢力拡大を試みたとも、息子長政の東軍参戦を背後で支えたともされる。1604 年京都伏見で 59 歳で没した。

2. 黒田長政(1568-1623)— 関ヶ原東軍の立役者、福岡藩初代

官兵衛の長男。父の有岡幽閉中に殺害命令を受けながら竹中半兵衛に匿われた経緯を持つ。秀吉子飼いとして九州征伐朝鮮出兵で武将として育ち、黒田二十四騎の中核となる。

秀吉死後は石田三成と対立、徳川家康に接近。家康養女栄姫との婚姻で家康陣営入りを明確にし、関ヶ原の戦い(1600)では東軍主力として戦う。特に小早川秀秋吉川広家ら西軍諸将への寝返り工作は長政の主導とされ、勝敗の決定的要因となった。

戦功で筑前 52 万 3000 石を与えられ、博多・那珂川下流域に福岡城を築城(1601-1607、城下町を黒田家祖の出身地播磨福岡にちなみ「福岡」と命名)。福岡藩の藩制を整備し、九州西部の有力大名となった。1623 年京都報恩寺で 56 歳で没。

3. 黒田忠之(1602-1654)— 黒田騒動を経た 2 代藩主

長政の長男、母は家康養女栄姫。1623 年家督相続、47 万 3000 石を継承。家臣の栗山大膳との対立から幕府に騒動が露見した黒田騒動(1632 年)は江戸初期の代表的お家騒動の一つで、藩存続の危機となったが、幕府裁定で藩は存続、栗山は南部藩預けとなった。

4. 黒田長溥(1811-1887)— 幕末の英明君主、蘭学奨励

福岡藩 11 代藩主。島津重豪(薩摩藩 8 代)の九男で、黒田家に養子入りした。蘭学・洋学を奨励し、精煉所を設立して洋式工業を試みる。九州諸藩の中で薩摩・佐賀・福岡が幕末の開明藩として並び称されたのも長溥の功績による。明治維新後は侯爵に列した。

5. 黒田長成(1867-1939)— 明治・大正期の侯爵

長知の長男、1900 年に侯爵を継承。貴族院議員として活動、貴族院副議長を長く務めた。


歴史的背景

戦国〜安土桃山期

播磨小寺家臣から羽柴秀吉に転じた官兵衛が中国攻めの参謀として活躍、有岡幽閉を経て豊臣政権下で豊前中津 12 万石。秀吉子飼いの長政は朝鮮出兵で武功を重ねた。

関ヶ原と福岡藩成立

秀吉死後、長政は徳川家康に接近、関ヶ原で東軍主力として小早川秀秋・吉川広家への調略を主導し勝敗を決した。戦後筑前 52 万 3000 石福岡藩を立藩、福岡城を築城。

江戸期の福岡藩

2 代忠之の黒田騒動(1632)で減封・改易の危機を経るも幕府裁定で藩は存続。3 代光之は貝原益軒を登用、藩学を整備した。

幕末維新

11 代長溥は島津重豪の子で薩摩から養子入り、蘭学奨励・精煉所設立で開明藩を志向。最後の藩主 12 代長知は版籍奉還・廃藩置県を経て、1884 年侯爵に叙爵された。


家紋「黒田藤巴」

藤の蔓を巴形に三方に渦巻かせた意匠で、戦国期の播磨小寺家から拝領したと伝わる。福岡藩黒田家の象徴として、福岡城・藩寺院(崇福寺等)・現代の福岡市の徽章意匠などに広く用いられている。


黒田節

酒は呑め呑め 呑むならば 日の本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」と歌われる黒田節は、福岡藩黒田家の武士道精神を表す民謡として今に伝わる。豊臣秀吉が福島正則に下賜した名槍「日本号」を、黒田家臣母里太兵衛が酒席の所望で福島から呑み取ったという逸話に由来するとされる。


関連する家系図

  • 豊臣家 — 官兵衛は秀吉軍師として中国攻めから朝鮮出兵まで参謀、長政も秀吉子飼い
  • 徳川家 — 関ヶ原で長政が東軍主力、家康養女栄姫が長政継室、戦後 52 万石を与えられて立藩
  • 織田家 — 信長の有岡幽閉処理(松寿丸処刑命令)と竹中半兵衛による助命
  • 島津家 — 11 代長溥は薩摩藩 8 代島津重豪の九男(薩摩から養子入り)

出典

ランク A

  • Wikidata: Q352539(黒田孝高)、2026-05-01 verified
  • Wikidata: Q1064493(黒田長政)、2026-05-01 verified

ランク B

  • 小和田哲男『黒田官兵衛』PHP 新書、2013

ランク C(Wikipedia、2026-05-01 確認)


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最終更新: 2026-05-01 執筆: 家系図ずかん編集部

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プリセット ID: kuroda / schemaVersion: 1.3 / 更新: 2026-05-01T00:00:00+09:00