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戦国大名戦国時代〜明治

鍋島家(佐賀藩主家)

肥前国の国人鍋島氏が、戦国期に龍造寺家臣として頭角を現し、鍋島直茂(1538-1618)が龍造寺隆信の死後に実権を掌握、子の勝茂が初代佐賀藩主となった。佐賀藩 35 万 7000 石として明治維新まで続き、武士の修養書葉隠(山本常朝口述)の地としても知られる。幕末の 10 代藩主鍋島直正(閑叟)反射炉・蒸気機関の実用化や種痘の普及など藩政の近代化を主導、薩長土肥の「肥」として明治維新の主要藩の一つとなった。明治維新後は侯爵として華族に列した。

  • 人物
    10
  • 家族構造
    6
  • verified
    100%
  • 信頼度
    ★★★
家系図
鍋島 清房鍋島 直茂彦鶴姫鍋島 勝茂鍋島 光茂鍋島 忠直鍋島忠茂松平牟利姫龍造寺華渓鍋島信房龍造寺康房小河信俊高源院 (鍋島勝茂継室)鍋島元茂鍋島直朝鍋島直澄彦菊上杉虎姫中院甘姫鍋島振真木氏 (鍋島光茂の側室)鍋島清久鍋島直弘鍋島市姫鍋島鶴宝乗院 (鍋島勝茂三女)永春院殿 (松平忠房正室)鍋島乙成姫神代直長鍋島伊勢龍石井常延納富信澄蓮華院 (石井常延の正室)慈光院 (太田茂連の妻)

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鍋島家(佐賀藩主家) 主要人物

10 人物のうち先頭 15 名 ・ 6 家族構造
  • 1鍋島清房1513-1593直茂父
  • 2鍋島直茂1538-1618加賀守
  • 3彦鶴姫1541-1629直茂正室
  • 4鍋島勝茂1580-1657信濃守
  • 5鍋島光茂1632-1700佐賀藩 2 代
  • 6鍋島直正1815-1871肥前守
  • 7鍋島直大1846-1921佐賀藩最後の藩主
  • 8山本常朝1659-1719佐賀藩士
  • 9鍋島忠直1613-1635勝茂四男
  • 10鍋島斉直1780-1839佐賀藩 9 代
  • 11鍋島忠茂1584-1624SPARQL自動拡張
  • 12松平牟利姫SPARQL自動拡張
  • 13龍造寺華渓SPARQL自動拡張
  • 14鍋島信房1529-1609SPARQL自動拡張
  • 15龍造寺康房?-1584SPARQL自動拡張

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もっと詳しく — 鍋島家(佐賀藩主家) の歴史と人物像を読む

鍋島家の家系図 — 龍造寺家臣から薩長土肥の「肥」、葉隠と幕末四賢侯まで

家系図ずかん編集部 公開: 2026-05-01 | 品質: Draft(信頼度 ★★)

[戦国大名] [戦国時代〜明治] [日本・肥前]

肥前国の国人鍋島氏が戦国期に龍造寺家臣として頭角を現し、鍋島直茂(1538-1618)が龍造寺隆信の死後に実権を掌握、子の勝茂が初代佐賀藩主となった。佐賀藩 35 万 7000 石として明治維新まで続き、武士の修養書葉隠(山本常朝口述)の地としても知られる。幕末の 10 代藩主鍋島直正(閑叟)反射炉などで藩政の近代化を主導、幕末四賢侯の一人として薩長土肥の「肥」を担い、明治維新の主要藩となった。明治維新後は侯爵に列した。


概要

項目内容
一族名鍋島家(佐賀鍋島家)
起源肥前国佐嘉、龍造寺家臣
拠点佐賀城(佐賀藩、1607-1871)
家紋抱き杏葉(大友氏より継承伝)
石高35 万 7000 石
明治叙爵侯爵(1884)

代表人物

1. 鍋島直茂(1538-1618)— 龍造寺の実権を掌握、佐賀藩祖

肥前国佐嘉に生まれ、龍造寺隆信の家臣として頭角を現した戦国の智将。1584 年、主君隆信が沖田畷の戦いで島津・有馬連合軍に討たれて戦死すると、龍造寺の幼主政家を補佐して実権を掌握。秀吉の九州征伐(1587)に協力して所領を安堵され、朝鮮出兵でも肥前勢を率いた。

秀吉死後、関ヶ原では息子勝茂が当初西軍についたが、父直茂の判断で速やかに東軍に転じ、家康の許しを得て佐賀 35 万 7000 石を安堵された。1607 年に龍造寉政家・高房父子の死去により、実質的に鍋島家による龍造寺家統合が完成した。1618 年に佐賀で 81 歳の長寿で没す。

後年の化け猫騒動(龍造寺の怨霊が化け猫となって祟ったという俗説)の中心人物として歌舞伎等で描かれるが、これは江戸後期に成立した伝説で歴史的事実としての性格は薄い。

2. 鍋島勝茂(1580-1657)— 初代佐賀藩主

直茂の長男、初代佐賀藩主。関ヶ原では当初西軍として伏見城攻めに参戦したが、父直茂の指示で速やかに東軍に転じ、戦後に家康の許しを得て佐賀 35 万 7000 石を安堵された。1607 年に正式に家督を継承して佐賀城を築城、藩制を整備。島原の乱(1637-1638)の鎮圧にも兵を派遣した。1657 年に 78 歳で没。

3. 鍋島光茂(1632-1700)— 葉隠の主君

佐賀藩 2 代藩主、勝茂の孫。1657 年祖父の死去により藩主に。藩政では文教奨励・治水を進めた。家臣山本常朝は光茂の側近として長く仕え、光茂の死(1700)に際して殉死を望むも禁じられ、出家して隠棲。後年の口述で『葉隠』を残した。

4. 山本常朝(1659-1719)— 『葉隠』口述者

佐賀藩士。鍋島光茂の側近として仕え、光茂の死で出家・隠棲した後、1710 年から 7 年がかりで田代陣基に口述し、『葉隠』全 11 巻として 1716 年に成立。「武士道とは死ぬことと見つけたり」の名言で知られる武士道書として、後世に強い影響を与えた。1719 年没、享年 60。

5. 鍋島直正/閑叟(1815-1871)— 幕末四賢侯、近代化の旗手

佐賀藩 10 代藩主、号は閑叟。財政破綻寸前の藩を引き継ぎ、徹底した倹約と人材登用で藩政を再建。蘭学・洋学を奨励し、精煉方(理化学研究所)を設置、反射炉(1850 年建設、日本初の実用化、大砲鋳造のため)・蒸気機関蒸気船アームストロング砲製造などで佐賀藩を幕末日本最先端の技術藩に育てた。

幕末四賢侯(島津斉彬・松平春嶽・伊達宗城と並ぶ)の一人として知られる。明治維新後は議定・上局議長・北海道開拓使長官などを歴任、1871 年に 58 歳で没した。

6. 鍋島直大(1846-1921)— 最後の藩主、駐英公使

直正の長男、佐賀藩 11 代(最後の藩主)。1861 年家督相続、戊辰戦争では新政府軍に与した。1884 年侯爵に叙爵。明治期に駐イタリア・駐英公使を歴任、貴族院議員も務めた。1921 年没、享年 75。


歴史的背景

戦国〜安土桃山期

肥前国人鍋島氏は龍造寺家臣として頭角を現し、1584 年沖田畷の戦いで主君龍造寺隆信戦死後、直茂が龍造寺家の実権を掌握。秀吉九州征伐に協力して所領安堵、朝鮮出兵にも参戦した。

関ヶ原と佐賀藩成立

勝茂は当初西軍だったが、父直茂の判断で東軍に転じ、戦後家康の許しを得て佐賀 35 万 7000 石を安堵。1607 年、龍造寉政家・高房父子の死去で鍋島家による龍造寺家統合が完成、佐賀城を築城して藩制を整備した。

江戸期の佐賀藩

2 代光茂の側近山本常朝が口述した『葉隠』は江戸中期成立の武士道書として後世に大きな影響を与えた。長崎警備(オランダ商館警護)を命じられたことで西洋文物への接触が早く、これが幕末の近代化の素地となった。

幕末・明治維新

10 代直正(閑叟)は反射炉・アームストロング砲で藩政の近代化を主導、幕末四賢侯の一人として、薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の一翼として明治維新を担った。最後の藩主 11 代直大は版籍奉還・廃藩置県を経て、1884 年侯爵に叙爵された。


家紋「抱き杏葉」

杏(あんず)の葉を左右から抱える意匠の杏葉紋で、もとは大友氏の家紋を龍造寺・鍋島氏が継承したと伝わる(大友・大内・少弐・龍造寺・鍋島の九州諸家系で類似紋が用いられた)。佐賀藩の象徴として藩寺院(高伝寺等)・現代の佐賀市の意匠等にも用いられている。


関連する家系図

  • 徳川家 — 勝茂は関ヶ原で当初西軍だったが速やかに東軍に転じ、戦後家康の許しを得て佐賀藩を立藩
  • 豊臣家 — 直茂は秀吉に仕え九州征伐・朝鮮出兵で活躍

出典

ランク A

  • Wikidata: Q1192828(鍋島直茂)、2026-05-01 verified

ランク B

  • 杉谷昭『鍋島閑叟』中公新書、1992

ランク C(Wikipedia、2026-05-01 確認)


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最終更新: 2026-05-01 執筆: 家系図ずかん編集部

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プリセット ID: nabeshima / schemaVersion: 1.3 / 更新: 2026-05-01T00:00:00+09:00