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摂関家平安末期〜現代

九条家(五摂家、貞明皇后を出した家)

藤原忠通の三男九条兼実(1149-1207)を家祖とする五摂家のひとつ。藤原北家嫡流、近衛家とともに摂関家の中核を占めた。日記『玉葉』(兼実)は中世史の一級史料として知られる。鎌倉期には九条道家(1193-1252)の子・頼経第 4 代鎌倉将軍(藤原将軍)となり、摂関家から将軍を出した稀有な例として日本史に位置づけられる。江戸期には九条家から二条家・一条家が分立して五摂家完成。明治以降は公爵となり、九条節子(1884-1951)が大正天皇皇后(貞明皇后)、現上皇(明仁)・先帝昭和天皇の祖母として皇室に直結した。歌人九条武子(1887-1928、本願寺大谷家出身、九条良致夫人)は浄土真宗西本願寺関連の文化人として大正期に活躍した。

  • 人物
    11
  • 家族構造
    7
  • verified
    80%
  • 信頼度
    ★★★
家系図
九条 兼実藤原 忠通九条 道家九条 頼経九条 頼嗣家女房加賀局九条良経西園寺掄子慈円松殿基房藤原兼房 (太政大臣)藤原育子藤原聖子信円源師子藤原忠実藤原宗子 (藤原宗通の娘)源信子源俊子 (源国信の娘)家女房五条源俊子 (源顕俊の娘)藤原兼子 (藤原季行の娘)藤原顕輔または藤原頼輔の娘 (九条兼実室)九条任子九条良輔九条良平九条良通良円良快玉日一条能保の娘 (九条良経正室)源有雅の娘 (九条道家の室)九条教実九条竴子法助九条仁子藤原道意大宮殿持明院家行の娘? (藤原頼経の室)藤原頼嗣九条頼経の娘 (北条政村の正室)

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九条家(五摂家、貞明皇后を出した家) 主要人物

11 人物のうち先頭 15 名 ・ 7 家族構造
  • 1九条兼実1149-1207九条家初代
  • 2藤原忠通1097-1164五摂家分立の起点
  • 3九条道家1193-1252九条家 3 代
  • 4九条頼経1218-1256第 4 代鎌倉将軍
  • 5九条頼嗣1239-1256第 5 代鎌倉将軍
  • 6九条尚忠1798-1871幕末関白
  • 7九条道孝1839-1906明治期当主
  • 8九条節子1884-1951大正天皇皇后
  • 9九条武子1887-1928大正期歌人
  • 10九条道実1870-1933九条家明治期当主
  • 11九条良致1869-1934道孝の子
  • 12大谷籌子1882-1911SPARQL自動拡張
  • 13菊麿王妃範子1878-1901SPARQL自動拡張
  • 14九条良致1884-1940SPARQL自動拡張
  • 15野間幾子1849-1946SPARQL自動拡張

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もっと詳しく — 九条家(五摂家、貞明皇后を出した家) の歴史と人物像を読む

九条家の家系図 — 五摂家、藤原将軍、貞明皇后を出した家

家系図ずかん編集部 公開: 2026-05-01 | 品質: Draft(信頼度 ★★)

[摂関家] [平安末期〜現代] [日本(京都・東京)]

九条家は、藤原北家嫡流・藤原忠通の三男九条兼実(1149-1207)を家祖とする五摂家のひとつ。兼実の日記『玉葉』は中世史の一級史料。鎌倉期には九条道家(1193-1252)の子・頼経第 4 代鎌倉将軍(藤原将軍)となり、頼嗣が第 5 代将軍として継いだ。九条家から鎌倉将軍を 2 代輩出した稀有な例である。江戸期は摂関家として続き、明治以降は公爵に列せられた。九条節子(1884-1951)は大正天皇皇后(貞明皇后)、昭和天皇ほか 4 皇子の母、現上皇明仁の祖母として近代皇室の中核に位置する。妹九条武子(1887-1928)は大正期を代表する女流歌人。


概要

項目内容
家祖九条兼実(1149-1207、藤原忠通三男)
時代平安末期 〜 現代(12 世紀 〜 21 世紀)
拠点京都(九条邸)、東京(明治以降)
家紋下がり藤(九条藤)
家格五摂家のひとつ
明治以降華族令により公爵
主要記録玉葉(九条兼実日記、1164-1200 の中世史一級史料)
皇室との関係貞明皇后(九条節子) → 昭和天皇 → 現上皇明仁

代表人物

1. 九条兼実(1149-1207)— 玉葉の著者、鎌倉幕府初期の朝廷代表

藤原忠通の三男として生まれ、京の九条邸に住したことから家名が九条となった。摂政・関白・太政大臣を歴任し、源平合戦から鎌倉幕府成立期にかけて朝廷を代表する人物として、源頼朝との連携で朝廷-幕府関係を新しい段階に進めた。詳しくは 藤原摂関家の家系図 を参照。

兼実は若い頃から日記をつけ続け、現代に伝わる『玉葉』(1164-1200 の 36 年余の詳細記録)は中世史の一級史料として参照される。源平合戦・平家滅亡・頼朝の挙兵・鎌倉幕府成立など、12 世紀末の激動の朝廷側の記録としての価値は計り知れない。

法然(浄土宗開祖)に帰依し、鎌倉新仏教の保護者の一人としても知られる。

2. 九条道家(1193-1252)— 藤原将軍の父

九条家 3 代(兼実の孫)。摂政・関白を歴任し、鎌倉幕府との連絡役として重視された。

道家の最大の歴史的事績は、子の頼経が幕府の招請により下向し、第 4 代鎌倉将軍(藤原将軍)となったこと(1226 年就任)である。源氏将軍家(頼朝-頼家-実朝)が源実朝の暗殺(1219)で断絶した後、北条執権家は新たな将軍を朝廷から迎える必要があった。この時、皇族将軍の招請が後鳥羽上皇に拒否されたため、摂関家の九条家から幼少の頼経が選ばれた。詳しくは 源氏将軍の家系図 を参照。

道家の子・頼経(第 4 代将軍)、孫・頼嗣(第 5 代将軍)が連続して将軍位を継ぎ、九条家は約 30 年間、形式上の将軍家としての地位にあった。しかし 1246 年の宮騒動以後、北条得宗家との対立で道家は失脚、九条家の政治的影響力が陰る転機となった。

3. 九条頼経(1218-1256)— 第 4 代鎌倉将軍

九条道家の子。源氏将軍家断絶後、北条執権家による将軍家招請を受けて 2 歳で鎌倉に下向、9 歳で第 4 代鎌倉将軍に就任した(藤原将軍・摂家将軍の初代、在職 1226-1244)。

将軍として実権を持つことはなく、北条執権政治のもとで形式的な将軍として在位した。後年、子の頼嗣に将軍職を譲り、宮騒動(1246)で京に送還された。1256 年没、享年 38。

源氏将軍断絶から皇族将軍(宗尊親王)以前の中継ぎとしての歴史的位置にあり、武士団による武家政権が摂関家から将軍を迎えた稀有な例として、日本中世史の重要な事例となっている。

4. 九条節子 / 貞明皇后(1884-1951)— 大正天皇皇后、近代皇室の祖母

九条道孝の四女として 1884 年に東京で生まれる。1900 年、16 歳で嘉仁親王(後の大正天皇)と結婚し皇太子妃となり、1912 年に夫の即位により皇后となった。

皇后時代に裕仁親王(後の昭和天皇)、雍仁親王(秩父宮)、宣仁親王(高松宮)、崇仁親王(三笠宮)の 4 皇子を産んだ。この 4 兄弟を起点として戦後の皇族構造が形成されたため、貞明皇后は近代皇室の系譜の枢要に位置する。詳しくは 天皇家の家系図 を参照。

1921 年に大正天皇の病状悪化に伴って事実上摂政期(裕仁親王が摂政)が始まり、夫の死(1926 年)後は皇太后となって大宮御所に住したことから「大宮さま」と呼ばれた。戦中・戦後を通じて、孫の現上皇(明仁)・常陸宮らの祖母として皇室の中心にあった。1951 年没、享年 66。墓所は東京都八王子市・多摩東陵。

九条家の血が大正天皇 → 昭和天皇 → 現上皇 → 今上天皇徳仁に受け継がれている事実は、近代皇室の系譜上の枢要を成している。

5. 九条武子(1887-1928)— 大正期を代表する女流歌人

九条道孝の二女(節子皇后の妹)、大正期を代表する女流歌人西本願寺(浄土真宗本願寺派) 第 21 世法主大谷光尊の三男・大谷籌子(西本願寺裏方)の養女として大谷家に入り、後に大谷光瑞(第 22 世)の弟・大谷尊由と結婚した。

歌人としては、佐佐木信綱の門に入り、雅やかな歌風と仏教的諦観を持ち合わせた歌風で大正期の女流歌人を代表した。歌集『金鈴』(1920)、『薫染』(1928 没後刊)。

仏教婦人会会長として社会活動にも貢献、関東大震災後の被災者支援(築地本願寺の臨時診療所開設など)で知られる。1928 年、敗血症により 40 歳で死去。九条家末裔の文化的貢献の代表例として現代まで語り継がれる。


歴史的背景

創始期 — 五摂家分立の起点

藤原摂関政治の頂点は 藤原道長(966-1028)の時代であり、子・頼通(992-1074)が宇治平等院鳳凰堂を建立した時期まで続いた。しかし、頼通の娘・寛子に皇子が生まれず、外戚の地位を失った藤原氏は院政期に政治的影響力を低下させていく。

平安末期の藤原忠通(1097-1164)の代に、長男・基実が近衛家、三男・兼実が九条家を立てた。鎌倉期には九条家から二条家一条家が、近衛家から鷹司家が派生し、近衛・九条・二条・一条・鷹司五摂家が成立した。以後、五摂家は江戸末期まで約 700 年にわたり、摂政・関白の職を輪番で務め続けた。詳しくは 藤原摂関家の家系図近衛家の家系図 を参照。

鎌倉期 — 藤原将軍を出した家

九条家史で最も特異な時期は、鎌倉期の藤原将軍(摂家将軍)輩出である。源氏将軍家の断絶(1219)後、九条道家の子・頼経(第 4 代将軍、1226 年就任)、孫・頼嗣(第 5 代将軍、1244 年就任)が連続して鎌倉将軍に就いた。これは形式的なものではあったが、摂関家から武家政権の頂点へ将軍を出した極めて稀有な事例として、日本中世史の重要な転換点を示している。

1246 年の宮騒動と、それに続く道家の失脚、頼経・頼嗣の京への送還によって、藤原将軍時代は終わりを告げ、以後は皇族将軍(宗尊親王ら)が形式上の鎌倉将軍となった。詳しくは 源氏将軍の家系図 を参照。

江戸期 — 摂関家としての継承

江戸期、九条家は他の四摂家(近衛・二条・一条・鷹司)と輪番で関白を務めた。江戸幕府は摂関家を朝廷の中枢として支援し、五摂家にはそれぞれ約 2,000 石以上の家禄を給した。

幕末期の九条尚忠は関白(1856-1862)として、日米修好通商条約勅許問題で井伊直弼の幕府との折衝にあたり、安政の大獄で蟄居処分を受けた。

近代 — 公爵から皇后へ

1869 年(明治 2)の華族令により、九条家は公爵に列せられた。九条道孝の四女・節子が 1900 年に皇太子妃となり、1912 年に大正天皇皇后(貞明皇后)となった。これにより九条家の血が近代皇室に直接入り、昭和天皇 → 現上皇 → 今上天皇徳仁へと継承される。妹の武子は大正期を代表する歌人として、文化方面での九条家の存在感を保った。

戦後の九条家は華族廃止により公的地位を失ったが、節子皇后を経由して皇室に直結する血統は、近代日本の系譜の中核に位置している。


家紋 — 下がり藤(九条藤)

九条家の家紋は下がり藤(九条藤)。藤原氏一般の下がり藤を九条家用に意匠化したもので、藤の花の数や房の長さに九条家独自の様式がある。

家紋についての一般的な調べ方は 家紋の調べ方ガイド を参照。


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出典・参考文献

ランク A

  • 「九条家関連 Wikidata Q ページ群」(貞明皇后 Q236147、九条武子 Q11436117 ほか) — CC0、2026-05-01 アクセス
  • 九条兼実『玉葉』1164-1200 — 中世史一級史料、宮内庁書陵部・東大史料編纂所に分蔵

ランク B

  • 朧谷壽『藤原氏千年』講談社現代新書、1996 — 藤原氏全体の通史
  • 小田部雄次『皇族 — 天皇家の近現代史』中央公論新社(中公新書)、2009 — 貞明皇后の出自と皇室入り

ランク C

  • 「九条家」「貞明皇后」Wikipedia 日本語版 — 概要参照、2026-05-01 アクセス

最終更新: 2026-05-01 執筆: 家系図ずかん編集部 品質: Draft(信頼度 ★★)

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プリセット ID: kujo / schemaVersion: 1.3 / 更新: 2026-05-01T00:00:00+09:00