ナポレオン家(ボナパルト家)の家系図 — コルシカ小貴族から欧州皇帝家へ、二度の帝政を繋ぐ系譜
家系図ずかん編集部 公開: 2026-04-22 | 最終更新: 2026-05-01 | 品質: Public-ready(信頼度 ★★★)
[海外貴族] [18 世紀末〜現代] [フランス・コルシカ・欧州各国]
コルシカ島アジャクシオの小貴族カルロ・ブオナパルテ(1746-1785)とレティツィア・ラモリーノ(1750-1836)夫妻に生まれた 13 人の子(うち 8 人成人)から、欧州大陸を一時的に支配する第一帝政(1804-1815)が誕生した。次男ナポレオン 1 世(1769-1821)はフランス革命戦争で頭角を現し、1799 年のブリュメール 18 日のクーデターで第一統領、1804 年フランス皇帝戴冠。ナポレオン法典(1804)を制定しつつ、長兄ジョゼフ(ナポリ王 → スペイン王)、弟ルイ(オランダ王)、末弟ジェローム(ヴェストファーレン王)、姉エリザ(トスカーナ大公妃)、妹ポーリーヌ(グァスタッラ女公)、妹カロリーヌ(ナポリ王妃、夫はミュラ元帥)を欧州各国の王座に配置、一族挙げての欧州支配を実現した。1815 年ワーテルロー敗北・セントヘレナ島流刑、1821 年同地で 51 歳没。第二帝政(1852-1870)を始動したナポレオン 3 世は、1 世の弟ルイ・ボナパルトと、ジョゼフィーヌ娘オルタンスの三男であり、ボナパルト=ボアルネ両系の合流。1870 年普仏戦争セダン捕虜・第二帝政崩壊で家系の政治支配は終焉、現家督は 9 世ジャン=クリストフ・ナポレオン(1986-、ジェローム系)。
概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 一族名 | ボナパルト家(伊: Buonaparte → 仏: Bonaparte)、ナポレオン家、ナポレオン朝 |
| 起源 | コルシカ島アジャクシオのイタリア系小貴族(ジェノヴァ支配下のコルシカで貴族称号)、1769 年フランス併合の翌年にナポレオン誕生 |
| 時代 | 第一帝政(1804-1815)・第二帝政(1852-1870)、現代も家系継承 |
| 主な拠点 | コルシカ島アジャクシオ → パリ・テュイルリー宮殿・チュイルリー宮殿 → 各国王宮(ナポリ・スペイン・オランダ・ヴェストファーレン・トスカーナ)、亡命先(英国・米国・スイス) |
| 紋章 | 金のミツバチ(メロヴィング朝キルデリク 1 世の墓所発掘の黄金ミツバチを意匠化、1804 年第一帝政国章として採用) |
| 支配期間 | フランス: 21 年(第一帝政 11 年 + 第二帝政 18 年 - 重複・空白除く)、欧州各地の傀儡王国を含めれば 1806-1815 年の約 9 年が「帝国」期 |
代表人物
1. ナポレオン 1 世(1769-1821)— フランス皇帝、ナポレオン法典
フランス皇帝(在位 1804/12/2-1814/4/6、1815/3/20-1815/6/22 の百日天下)。コルシカ島アジャクシオで、カルロ・ブオナパルテとレティツィア・ラモリーノの次男として 1769 年 8 月 15 日に誕生。コルシカは同年 5 月、長くジェノヴァ共和国の支配下にあったがフランスに併合されたばかりであり、当時 0 歳のナポレオンは「フランス併合後にフランス国民として誕生した最初のコルシカ人」の一人となった。
10 歳でブリエンヌ陸軍幼年学校に入学、その後パリの陸軍士官学校(1784-1785)を経て 1785 年に砲兵将校(少尉)に任官。1789 年フランス革命勃発時はコルシカで活動していたが、1793 年のトゥーロン包囲戦で 24 歳の砲兵指揮官として頭角を現し、王党派の英国艦隊を撃退、若くして将官に昇進した。1796 年にイタリア遠征軍司令官に任命されてオーストリア軍を破り、1797 年カンポ・フォルミオの和約でオーストリアからベルギー・ライン左岸を獲得、フランス国内で英雄となった。
1798-1799 年のエジプト遠征(ピラミッドの戦い、ナイルの海戦敗北、シリア遠征失敗)を経て、1799 年 11 月 9 日(共和暦ブリュメール 18 日)にブリュメールのクーデターでディレクトリ政府を打倒、第一統領としてフランスの実権を掌握した。1800 年マレンゴの戦いで再度オーストリアを破り、国内でコンコルダート(教皇との和約、1801)・ナポレオン法典(1804)・行政地方区画(プレフェ制)・フランス銀行設立など近代国家機構を整備した。
1804 年 12 月 2 日、パリのノートルダム大聖堂で、教皇ピウス 7 世の臨席のもとにフランス皇帝として戴冠。教皇から手渡された冠を自ら頭に乗せた逸話は政治宣伝で増幅され、ジャック=ルイ・ダヴィッドの絵画『ナポレオンの戴冠式』に永遠化された。1805 年 12 月のアウステルリッツ三帝会戦でロシア・オーストリア連合軍を粉砕、1807 年ティルジットの和約でロシアと同盟、1809 年ヴァグラムの戦いで再度オーストリアを破り、欧州大陸の覇権を確立した。
1810 年、嫡子を求めて最初の妻ジョゼフィーヌと離婚、ハプスブルク家オーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚。1811 年に嫡男ナポレオン 2 世(ローマ王として誕生)を儲けた。しかし大陸封鎖体制下のロシアとの対立が深まり、1812 年 6 月のロシア遠征(60 万の大軍)はモスクワ占領後の冬季撤退で壊滅、フランス軍は壊滅状態で帰国。1813 年ライプツィヒの諸国民会戦で連合軍に敗北、1814 年 3 月パリ陥落で 4 月退位、エルバ島へ流罪。
1815 年 3 月、エルバ島を脱出して再度パリに帰還、百日天下を開始したが、6 月 18 日のワーテルローの戦いで英国ウェリントン公・プロイセンのブリュッヒャーの連合軍に敗北、再度退位して英国海軍に投降、セントヘレナ島(南大西洋の英領離島)に流された。同島ロングウッドハウスで幽閉生活を送り、ラス・カーズ伯爵らに口述で『セントヘレナ回顧録』を残しつつ、1821 年 5 月 5 日に 51 歳で死去。死因は通説で胃癌だが、近年のヒ素中毒説も検討されている。
遺体は 1840 年にナポレオンの遺骸帰還としてパリに戻り、現在はパリのアンヴァリッド廃兵院円蓋下の赤色斑岩石棺に安置されている。ナポレオン法典(1804、フランス民法典)は、欧州・南米・日本(明治民法 1898)など世界各国の民法制定に決定的影響を与えた。
2. ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814)— 最初の妻、フランス皇后
ナポレオンの最初の妻、フランス皇后(在位 1804-1809)。本名マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェール・ド・ラ・パジュリ。西インド諸島マルティニーク島のクレオール植民地貴族(プランテーション経営者タシェール家)の長女として、1763 年に誕生。
1779 年に 16 歳でアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵(フランス革命期軍人)と結婚、長男ウジェーヌ・ド・ボアルネ(後のイタリア副王)、長女オルタンス・ド・ボアルネ(後のオランダ王妃、ナポレオン 3 世の母)を産んだ。1794 年、革命の恐怖政治期に夫アレクサンドルがギロチン処刑され、ジョゼフィーヌ自身も投獄されるが、ロベスピエール失脚で釈放された。
1796 年 3 月、6 歳年下の砲兵将校ナポレオンと結婚(ジョゼフィーヌ 32 歳・ナポレオン 26 歳)。1804 年のナポレオン戴冠時にはフランス皇后として戴冠、ジャック=ルイ・ダヴィッドの絵画『ナポレオンの戴冠式』に描かれた。しかしナポレオンとの間に子が生まれず、王朝継承確保のため 1809 年 12 月に離婚。離婚後もパリ近郊のマルメゾン館で皇后の称号と居住権を保持し、薔薇園(マルメゾンのバラ)で知られる名園を造営した。1814 年 5 月、ジフテリアまたは肺炎で 50 歳で死去、ナポレオンより 7 年早い退場となった。
ナポレオンはセントヘレナで「私の不幸の始まりは離婚だった」とジョゼフィーヌへの後悔を語ったとされ、最後の言葉に「フランス、軍隊、軍隊の長、ジョゼフィーヌ」と呼んだとも伝わる。
3. マリー・ルイーズ(1791-1847)— ハプスブルク家オーストリア皇女
ナポレオンの2 番目の妻、フランス皇后(在位 1810-1814)、ハプスブルク=ロートリンゲン家のオーストリア皇女。オーストリア皇帝フランツ 1 世の長女として、1791 年にウィーンで誕生。フランス革命でギロチン処刑されたマリー・アントワネット(フランス王妃)の大姪孫(マリー・アントワネットの兄レオポルト 2 世の孫)に当たる。詳しくは ハプスブルク家の家系図 を参照。
1810 年 4 月、ナポレオンの王朝継承確保とフランス=オーストリア政略結婚として、19 歳で 21 歳年上のナポレオン 1 世(40 歳)と結婚。翌 1811 年 3 月 20 日に嫡男ナポレオン 2 世(ローマ王)を出産した。1814 年第一帝政崩壊時、マリー・ルイーズはナポレオン 2 世(3 歳)とともにフランスを離れ、父フランツ 1 世のもとウィーンへ帰還。1815 年百日天下後のナポレオン没落でも夫の元に戻ることなく、ウィーン会議の決定によりパルマ・ピアチェンツァ・グァスタッラ女公(在位 1814-1847)として独自の領地を与えられ、オーストリア外交官ナイペルク将軍との貴賤結婚を経て 1847 年にパルマで 56 歳没。
ナポレオンの没落時に夫のもとに留まらなかったことで「裏切りの皇后」と評されることも多いが、ハプスブルク家の家族としての義務(墺帝フランツ 1 世の長女として)と政略結婚の犠牲者という側面もある。
4. ナポレオン 2 世(1811-1832)— ローマ王、ライヒシュタット公
ナポレオン 1 世とマリー・ルイーズの唯一の嫡出子、第一帝政の正統な継承者。1811 年 3 月 20 日にパリ・テュイルリー宮殿で誕生時、即日ローマ王(Roi de Rome)の称号を授けられ、フランス全土で 100 発以上の祝砲が鳴らされた。
1814 年の第一帝政崩壊時、3 歳で母マリー・ルイーズに連れられてフランスを離れ、母の故国オーストリアのウィーンへ帰還、祖父フランツ 1 世(オーストリア皇帝)のもとシェーンブルン宮殿で養育された。1818 年にライヒシュタット公の称号を授けられ、教育はメッテルニヒの監督下で慎重に管理され、ボナパルト主義の遺産から距離を置かれた。1832 年 7 月 22 日にシェーンブルン宮殿で 21 歳で結核死、無嗣。
ナポレオン 1 世の直系男系は彼の死で断絶、以後の第二帝政ナポレオン 3 世はナポレオン 1 世の弟ルイ・ボナパルト系の傍系継承となった。遺骸は 1940 年にアドルフ・ヒトラーの政治演出でパリ・アンヴァリッド廃兵院へ移送、現在は父ナポレオン 1 世の石棺の傍らに安置されている。短い生涯ながら、ロスタンの戯曲『鷲の子(L'Aiglon)』(1900)で文学的に永遠化され、フランス・ロマン主義の悲劇のヒーロー像となった。
5. ナポレオン 3 世(1808-1873)— 第二帝政、オスマンのパリ大改造
第二帝政フランス皇帝(在位 1852-1870)、フランス共和国大統領(1848-1852)。本名シャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト。ナポレオン 1 世の弟ルイ・ボナパルト(オランダ王、後述)とオルタンス・ド・ボアルネ(ジョゼフィーヌの娘)の三男として、1808 年 4 月 20 日にパリで誕生。母方ではジョゼフィーヌの孫であり、伯父ナポレオン 1 世とジョゼフィーヌ夫妻の養孫的位置にもあたる。
1832 年に従兄のナポレオン 2 世が結核で死去、同年に長兄ナポレオン=ルイも死去したため、ナポレオン 1 世の弟ルイ系の継承者として浮上。1836 年(ストラスブール暴動)・1840 年(ブローニュ上陸)の 2 度のクーデター未遂で英国・米国・イタリアを亡命生活、1840 年のブローニュ上陸失敗で逮捕されてアム要塞に6 年間幽閉(1840-1846)、その間に『ナポレオン的観念』『貧窮の根絶』を執筆し、ボナパルト主義(国民投票・社会改良・強い国家)を体系化した。1846 年にアム要塞から脱獄して英国へ亡命。
1848 年フランス革命(2 月革命)で第二共和政が成立すると、12 月 10 日のフランス共和国大統領選挙(男子普通選挙)で 75% の得票で圧勝。1851 年 12 月 2 日(伯父ナポレオン 1 世の戴冠記念日)、現職大統領としての自己クーデターで議会を解散、独裁権を掌握。1852 年 12 月 2 日、国民投票で皇帝に推戴され、ナポレオン 3 世として第二帝政を開始した。
第二帝政の主な事績は、オスマンによるパリ大改造(1853-1870、エトワール広場・凱旋門・大通り・オペラ座・公園など、近代都市パリの基本骨格を形成)、クリミア戦争(1853-1856)、イタリア統一戦争(1859、サヴォイア・ニースをフランスに併合)、メキシコ出兵(1861-1867、マクシミリアン大公をメキシコ皇帝に擁立するも失敗)、英仏通商条約(1860、自由貿易)、植民地拡張(インドシナ・西アフリカ)。1870 年 7 月、対プロイセン関係悪化(エムス電報事件)から普仏戦争を仕掛けたが、9 月 2 日セダンの戦いでプロイセン軍に包囲され、ナポレオン 3 世自身が捕虜となった。9 月 4 日にパリで第二帝政崩壊、第三共和政成立。1871 年 3 月、釈放されて英国へ亡命、ケント州チスルハーストで暮らした。1873 年 1 月 9 日、64 歳で死去、墓所は英国ハンプシャー州ファーンボローの聖ミカエル修道院。
ボナパルト 8 兄弟姉妹 — 欧州各国の王座配置
ナポレオン 1 世の最大の特異性は、8 人の兄弟姉妹を欧州各国の王・女王・大公妃・元帥に配置した点にある。これは古代以来の欧州君主家の中でも前例のない一族統治であり、第一帝政(1804-1815)の構造を理解する鍵となる。両親カルロ・ブオナパルテ(1746-1785、コルシカの弁護士)とレティツィア・ラモリーノ(1750-1836、通称マダム・メール)の 13 人の子のうち、成人した 8 人すべてに以下の称号・配偶者・子孫が記録されている。
兄弟姉妹一覧表
| 兄弟姉妹 | 生年 | 没年 | 主要称号 | 配偶者・子 |
|---|---|---|---|---|
| ジョゼフ(長子) | 1768 | 1844 | ナポリ王(1806-1808)→ スペイン王(1808-1813) | 妻ジュリー・クラリー、2 娘 |
| ナポレオン 1 世(次男) | 1769 | 1821 | フランス皇帝(1804-1815) | 妻 1 ジョゼフィーヌ、妻 2 マリー・ルイーズ、嫡男ナポレオン 2 世 |
| リュシアン(三男) | 1775 | 1840 | カニーノ・ムシニャーノ公(教皇授与) | ローマ亡命、子孫は鳥類学者シャルル=リュシアン経由で米国系へ |
| エリザ(長女) | 1777 | 1820 | ピオンビーノ・ルッカ女侯・トスカーナ大公妃(1809-1814) | 夫バチョッキ大佐、フィレンツェのパラッツォ・ピッティを本拠 |
| ルイ(四男) | 1778 | 1846 | オランダ王ローデヴェイク 1 世(1806-1810) | 妻オルタンス、三男がナポレオン 3 世 |
| ポーリーヌ(次女) | 1780 | 1825 | ボルゲーゼ公妃・グァスタッラ女公(1806-) | カノーヴァ彫像モデル、兄エルバ島亡命に資金援助 |
| カロリーヌ(三女) | 1782 | 1839 | ナポリ王妃(1808-1815) | 夫ジョアシャン・ミュラ元帥(ナポリ王) |
| ジェローム(末子) | 1784 | 1860 | ヴェストファーレン王(1807-1813) | 妻 1 米国エリザベス・パターソン(無効)、妻 2 ヴュルテンベルク王女カタリーナ、子孫が現代家督ジャン=クリストフ 9 世へ |
母レティツィア — 8 人の王・女王の母「マダム・メール」
母レティツィア・ラモリーノ(1750-1836)は、夫の死(1785)後にコルシカで質素な生活を送りつつ子どもたちを教育し、第一帝政期は「マダム・メール(皇帝の母)」の称号を授けられパリの邸宅で暮らした。1815 年没落後はローマに移り、教皇ピウス 7 世の保護下でローマのパラッツォ・リナウンチャータに居住、1836 年 2 月にローマで 85 歳で没した。子の 8 人中、エリザ(1820)・ナポレオン(1821)・ポーリーヌ(1825)・ナポレオン 2 世(1832、孫)・リュシアン(1840)らに先立たれた長命の母であった。
イタリア半島・スペイン・ドイツ・オランダへの配置の戦略
ナポレオンが兄弟姉妹を各国王に配置した戦略は単なる縁故主義ではなく、第一帝政の構造として機能した。
- ナポリ・スペイン = 兄ジョゼフ(信頼できる外交官)
- オランダ = 弟ルイ(現地慣習を尊重する穏健派)
- ヴェストファーレン(中部ドイツ) = 末弟ジェローム(ナポレオン法典の実験場)
- トスカーナ(中部イタリア) = 姉エリザ(芸術文化都市の管理)
- ナポリ(再配分) = 妹カロリーヌ + 夫ミュラ元帥(軍事拠点としてのナポリ)
- ボルゲーゼ・グァスタッラ(ローマ) = 妹ポーリーヌ(イタリア大貴族との同化)
これら傀儡王国はすべて第一帝政崩壊(1814-1815)で消滅したが、ナポレオン法典・近代的官僚制・現代的行政区画の導入により、欧州の近代化に間接的影響を残した。
第二帝政の系譜 — ボナパルト=ボアルネ両系の合流
第二帝政(1852-1870)は、ナポレオン 1 世の直系男系断絶(1832 年ナポレオン 2 世死)を受けて、傍系継承として成立した。系譜の流れは以下の通り:
ナポレオン 1 世 ジョゼフィーヌ
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+— マリー・ルイーズ(再婚) — 嫡男ナポレオン 2 世(無嗣で 1832 年没)
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弟ルイ・ボナパルト × オルタンス・ド・ボアルネ(ジョゼフィーヌ娘、ナポレオンの継娘)
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三男ナポレオン 3 世(1808-1873) × ウジェニー・ド・モンティジョ
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独子ナポレオン・ウジェーヌ(1856-1879、ズールー戦争戦死、無嗣)
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[第二帝政継承断絶]
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ナポレオン 1 世末弟ジェローム系へ家督移行
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プロン=プロン → ヴィクトル → ルイ → シャルル → 現代ジャン=クリストフ(9 世、1986-)
特異な点は、ナポレオン 3 世がボナパルト家とボアルネ家(ジョゼフィーヌ系)の合流であることである。父ルイ・ボナパルトはナポレオン 1 世の弟、母オルタンスはジョゼフィーヌの実娘。1802 年にルイとオルタンスが政略結婚した背景には、ナポレオン=ジョゼフィーヌ夫妻に嫡子の見込みがなく、姪(オルタンス)を弟の妻にすることで継承確保を図る意図があった。皮肉にも、その結婚から生まれた三男ナポレオン 3 世こそが、ナポレオン 2 世断絶後の家督を継ぐことになる。
ナポレオン 3 世の独子皇太子ナポレオン・ウジェーヌ(1856-1879)は、第二帝政崩壊後の英国亡命中に英国陸軍将校となり、1879 年に南アフリカ・ズールー戦争で偵察中に槍に刺されて 23 歳で戦死、無嗣。これにより第二帝政の正統継承も完全に断絶し、家督はナポレオン 1 世の末弟ジェロームの子孫プロン=プロン系へと移った。
金のミツバチ — ナポレオン家の紋章
ナポレオン 1 世が 1804 年の皇帝戴冠時に第一帝政の国章として採用したのは、金色のミツバチを多数配したマント・紋章である。意匠の典拠は、メロヴィング朝(フランク王国 481-751)の初代王キルデリク 1 世(458-481)の墓(ベルギー・トゥルネー、1653 年発掘)から発見された 300 匹余の黄金のミツバチであった。
ブルボン家(1589-1792)の伝統的シンボル**百合の紋章(フルール・ド・リス)**に対して、ナポレオンは「フランスの真の起源は革命とブルボン家ではなくメロヴィング朝にある」と主張する政治的メッセージを込めて、ミツバチを採用した。即位時のマントには金色のミツバチが多数刺繍され、ジャック=ルイ・ダヴィッドの絵画『ナポレオンの戴冠式』にも明確に描かれている。
ミツバチは「勤勉・組織性・統率」の象徴として、ナポレオン的価値観(規律・能力主義・国家統合)に適合した。第二帝政(1852-1870)もこの紋章を継承し、現代でも Fondation Napoléon・ナポレオン研究機関のシンボルとして用いられる。
関連する家系図
- ハプスブルク家 — ナポレオン 1 世の 2 番目の妻マリー・ルイーズはハプスブルク家オーストリア皇帝フランツ 1 世の長女。マリー・アントワネットの大姪孫にあたる。1810 年の政略結婚は、フランス革命でギロチン処刑されたマリー・アントワネットの故国・ハプスブルクとの和解の象徴
- 英王室 — ナポレオン戦争(1803-1815)の最大の敵対者。ホレーショ・ネルソン提督(トラファルガーの海戦 1805)、ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(ワーテルローの戦い 1815)が英国側の主要指揮官。ナポレオンは 1815 年セントヘレナ島流刑も英国海軍護送、1821 年没後の遺骸帰還(1840)まで英国管理下
- メディチ家 — ナポレオン 1 世の姉エリザ・ボナパルトは、1809-1814 年にトスカーナ大公妃として、メディチ家(1737 年に断絶)が長く支配したフィレンツェのトスカーナ大公領を統治。フィレンツェのパラッツォ・ピッティを本拠とし、メディチ家とハプスブルク=ロートリンゲン家(1737-1859)に続く第三の支配家系の一翼
- ロマノフ朝 — ナポレオン 1 世とロシア皇帝アレクサンドル 1 世(在位 1801-1825)は、1807 年のティルジットの講和で同盟関係を結んだが、大陸封鎖体制の維持をめぐり対立。1812 年のロシア遠征(60 万のフランス軍がほぼ壊滅)はナポレオン没落の決定的契機
- 徳川将軍家 — ナポレオン 1 世(1769-1821)とほぼ同時代に、徳川 11 代将軍徳川家斉(在位 1787-1837)が江戸幕府を統治。家斉の長期治世(文化・文政期)とナポレオン戦争・第一帝政・第二帝政の時代と日本の鎖国体制が並行する
関連 Pillar
- 幕末・明治を読む 大政奉還から日露戦争まで — ナポレオン 3 世(在位 1852-1870)の第二帝政期は、日本の幕末・明治維新と重なり、フランスが日本に幕府寄りの軍事顧問団を派遣した時期に相当
関連 Ranking
- 世界王室ランキング — 第一帝政・第二帝政の二度の皇帝家として、世界史上の主要王朝の一つ
関連 Guide
- 家紋の探し方 — ナポレオン家の金のミツバチは、メロヴィング朝の黄金ミツバチを意匠化した政治的シンボルの典型例
出典・参考文献
ランク A(一次資料・公式資料)
- Wikidata Q517 ナポレオン・ボナパルト(最終アクセス: 2026-05-01)
- Wikidata 主要 Qid 群 Q7223(ジョゼフ)、Q272208(リュシアン)、Q235739(エリザ)、Q135346(ルイ)、Q236612(ポーリーヌ)、Q236603(カロリーヌ)、Q298604(ジェローム)、Q174927(ジョゼフィーヌ)、Q125683(マリー・ルイーズ)、Q236540(オルタンス)、Q44212(ナポレオン 2 世)、Q42087(ナポレオン 3 世)、Q178690(ウジェニー)、Q179436(皇太子ナポレオン)
- 『セントヘレナ回顧録(Mémorial de Sainte-Hélène)』(ラス・カーズ伯爵記録、1823)— ナポレオン口述の一次資料、ナポレオン研究の出発点
- 『ナポレオン書簡集(Correspondance de Napoléon Ier)』(フランス第二帝政期 1858-1869 編纂、全 32 巻)— 一次資料として最重要、近年デジタル化進む
- 『ナポレオン法典(Code civil des Français)』(1804)— ナポレオン 1 世が編纂を主導、欧州・南米・日本の民法に決定的影響
- Fondation Napoléon(ナポレオン財団)公式サイト napoleon.org — フランスのナポレオン研究の中核学術機関
ランク B(学術書・専門書)
- Jean Tulard『Napoléon』(Fayard、1977、全 3 巻、改訂版多数)— ナポレオン研究の現代的決定版、コレージュ・ド・フランス
- Andrew Roberts『Napoleon: A Life』(Penguin、2014)— 英米圏のナポレオン研究の代表作、書簡 30,000 通余を踏まえた包括的評伝
- Philippe Séguin『Napoléon III』(Grasset、1990)— フランス政治家・歴史家による第二帝政研究の主要著作
- André Castelot『Joséphine』(Perrin、1959)— ジョゼフィーヌ皇后の代表的伝記
- 長塚隆二『ナポレオン: 英雄とその時代』(朝日文庫、1986)— 戦後日本のナポレオン研究の標準書
- 遅塚忠躬『フランス革命とナポレオン』(山川出版社、1997)— 日本のフランス史研究の入門学術書
ランク C(包括的解説資料)
- Wikipedia 英語版 Napoleon(最終アクセス: 2026-04-22)
- Wikipedia 日本語版 ナポレオン・ボナパルト(最終アクセス: 2026-05-01)
- コトバンク「ナポレオン」「第一帝政」「第二帝政」「ボナパルト家」 — 日本語百科事典統合
- Napoleonic Series napoleon-series.org — ナポレオン期欧州史の特化サイト
本記事で扱っていない論点
海外王室・皇帝家系の常として、ボナパルト家も膨大な傍系・婚姻関係が存在し、本記事では主軸となる第一帝政・第二帝政・現代家督への系譜に絞った。以下の論点は今後の拡充候補:
- ジェローム系プロン=プロン家の詳細 — ジェローム子のナポレオン=ジェローム(1822-1891)、その子ヴィクトル(1862-1926)、ルイ(1914-1997)、シャルル(1950-)、現代ジャン=クリストフ(1986-)の 5 代の家督継承の詳細
- 米国系ボナパルト家 — ジェロームと米国エリザベス・パターソンの長男ジェローム=ナポレオン(1805-1870)系統が米国メリーランド州に定着、20 世紀にチャールズ・ボナパルト(米国海軍長官・司法長官)を輩出
- ナポリ・ミュラ家 — カロリーヌ・ミュラの長男アシル・シャルル(1801-1847)系がナポリ王太子位を継承、米国フロリダに移住して現代まで
- オルタンス前夫ボアルネ系統との関係 — オルタンスの兄ウジェーヌ・ド・ボアルネのロイヒテンベルク公家系は、バイエルン・スウェーデン・ロシア・ブラジル王家との婚姻多数、現代スウェーデン王家・ブラジル皇室に血筋を伝えた
- ナポレオン 1 世の側室・庶子 — マリア・ヴァレフスカ(ポーランド伯爵夫人、1786-1817)との間のアレクサンドル・ヴァレフスキ(1810-1868、第二帝政期外務大臣)、エレオノール・ドニュエルとのシャルル・レオン(1806-1881)など
- ナポレオン 1 世死因論争 — 通説の胃癌に対し、近年のヒ素中毒説(英国・サン=ヘレナ毒殺説)の科学的検証
- ナポレオン法典の世界的影響 — 明治民法(1898)・欧州各国・南米諸国の民法典への影響を比較法学的に検討する論点
これらの論点は、第二帝政期・米国系・ロイヒテンベルク家など独立 preset として扱うことが妥当な規模を持つため、本 preset の範囲外とした。
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ボナパルト家のように、亡命・改姓・複雑な婚姻関係(兄嫁の娘を弟の妻に、養子と継子の混在、貴賤結婚など)を含む家系も、家系図ずかんでは丁寧に記録できます。血縁関係(実親子)と法律上の親子関係(養子)を区別したり、改名・改姓の時期を年表とともに残したりと、複雑な近代家族の系譜を表現するための機能が揃っています。
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最終更新: 2026-05-01 執筆: 家系図ずかん編集部 品質レベル: Public-ready

