正盛・忠盛が院政期の京へ進出する
伊勢を基盤にした平氏は、白河院・鳥羽院との関係や海上交通の力で京の政治へ近づきました。
平家は、桓武平氏のうち伊勢平氏嫡流として京へ進出し、平忠盛・清盛の代に急速に力を伸ばした武家です。清盛は武士として初めて太政大臣となり、娘徳子と安徳天皇を通じて政権の頂点に立ちますが、治承・寿永の乱を経て壇ノ浦で一門の時代は終わります。
院政期に台頭し、平清盛の平氏政権から壇ノ浦へ向かった平家
最初に見るところ
伊勢を基盤にした平氏は、白河院・鳥羽院との関係や海上交通の力で京の政治へ近づきました。
保元・平治の乱を経て清盛は京の軍事を握り、太政大臣就任と徳子入内で平氏政権を築きます。
平家内部の調整役だった重盛の死後、反平氏勢力が広がり、都落ち、一ノ谷、屋島、壇ノ浦へ進みます。
関係をしぼって見る
院近臣化と海上交通の力で平氏台頭の土台を作る。
清盛と時子の婚姻が平家後半の中心人物を生む。
重盛・宗盛・知盛の役割差が平家終盤を読む鍵になる。
徳子入内と安徳天皇即位で平家の権威が高まる。
頼朝助命と頼盛系統により、平氏の一部は滅亡後も残る。
系図でひと目でたどる
家系図を時間で読む
平正盛が伊勢守となり、伊勢平氏の基盤が固まる。
平忠盛が武家として殿上人となり、京での地位を高める。
清盛が後白河天皇方で勝利し、京の軍事的地位を高める。
清盛が源義朝らを破り、武家平氏の優位が決定的になる。
清盛が武士として初めて太政大臣に就く。
清盛の娘徳子が高倉天皇の中宮となる。
調整役の重盛を失い、平家の政治的均衡が崩れ始める。
反平氏の動きが広がり、源頼朝らの挙兵につながる。
木曽義仲の入京を前に平家が京都を離れる。
壇ノ浦の戦いで平家の政権は終わる。
まず覚える人だけ
平忠盛1096-1153京進出院政期に京で地位を上げ、清盛の台頭を準備した父。
平清盛1118-1181平氏政権保元・平治の乱を経て太政大臣となり、平氏政権を築いた中心人物。
平重盛1138-1179調整役清盛の長男。物語では平家の良心として描かれ、死後に均衡が崩れる。
平徳子1155-1214建礼門院清盛の娘で高倉天皇中宮、安徳天皇の母。平家滅亡後の鎮魂を象徴する人物。
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清盛の存在は大きいですが、正盛・忠盛の京進出、重盛の調整役、宗盛・知盛の終盤、徳子と安徳天皇の皇室接続を並べると、平家の興亡が家として見えます。
平家は物語としての印象が強い家です。人物評価や名場面は魅力ですが、ページでは同時代記録・物語・後世の研究を区別し、断定しすぎない表現にします。
壇ノ浦は平家の終幕ですが、幼少の安徳天皇や入水の場面はセンシティブです。本文では歴史上の転換点として簡潔に扱い、画像では描写しません。
短く読む
平正盛・忠盛の代に、伊勢平氏は院との関係や海上交通の力を背景に京へ進出しました。清盛の急成長は、父祖の政治的・経済的な基盤の上にあります。
平清盛は保元の乱・平治の乱を経て京の軍事を握り、1167年に武士として初めて太政大臣となりました。娘徳子の入内と安徳天皇の即位により、平家は政権の中心に立ちます。
清盛の長男重盛は、物語上も政治上も調整役として重要です。重盛の死後、反平氏の動きが強まり、都落ち、一ノ谷、屋島、壇ノ浦へと平家の終幕が進みました。
出典をたどって深く読む
平清盛(1118-1181)を中心とする伊勢平氏嫡流(武家平氏の本流)、すなわち「平家」の家系図。桓武天皇を祖と仰ぐ桓武平氏の中で伊勢国を本拠とした武家の血脈が、正盛・忠盛2 代の京進出を経て清盛の代に頂点を迎え、武士として初の太政大臣(1167)を出して娘徳子が産んだ安徳天皇(1178-1185)の外祖父となり、日本史上初の武家政権(1167-1185)を築いた。しかし栄華は短く、1180 年の以仁王の令旨を機に源頼朝・木曽義仲が挙兵、1183 年の都落ち、1184 年の一ノ谷、1185 年の屋島・壇ノ浦の戦いで一族はほぼ壊滅、安徳天皇は祖母平時子(二位尼)に抱かれて 7 歳で海に沈んだ。『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」は、この一族の興亡そのものを象徴する。
家系図ずかんには別途 源氏物語の家系図 のプリセットがあるが、これは紫式部が描いた架空の物語としての「光源氏の系譜」を扱うものであり、本記事で扱う実在の武家平氏(平清盛家)とは別テーマである。物語の主人公・光源氏は皇子から臣籍降下して「源」姓を賜った設定であり、平氏ではない。本記事は『平家物語』(13 世紀成立、軍記文学)に描かれる実在の平清盛一族の家系図である。両者を混同しないよう、冒頭で整理しておく。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 一族名 | 平家(伊勢平氏嫡流・平氏政権) |
| 時代 | 平安末期(11 世紀後半 〜 1185 年) |
| 拠点 | 伊勢国(発祥) → 京都六波羅 → 福原(現神戸市兵庫区) → 西海道(屋島・壇ノ浦) |
| 家紋 | 揚羽蝶(あげはちょう) |
| 始祖 | 桓武天皇 → 葛原親王 → 高望王(平姓下賜、889 年頃) → 国香 → 貞盛 → 維衡(伊勢平氏始祖) → 正盛 → 忠盛 → 清盛 |
| 政権期間 | 1167(清盛太政大臣)- 1185(壇ノ浦) |
| 最盛期当主 | 平清盛(在世 1118-1181) |
| 代表作品 | 『平家物語』(覚一本ほか諸本)、『建礼門院右京大夫集』、能『敦盛』『船弁慶』、歌舞伎『義経千本桜』、NHK 大河『平清盛』(2012) |
平忠盛の長男、母は祇園女御の妹とも伝わる(白河法皇落胤説あり)。1118 年(元永 1)生まれ。父の死(1153)後に伊勢平氏の家督を継ぎ、1156 年(保元 1)の保元の乱で後白河天皇方として勝利、1159 年(平治 1)の平治の乱で藤原信頼・源義朝の挙兵を破り、京の軍事的優位を確立した。源義朝の遺児・頼朝を伊豆へ流罪としたが、頼朝の助命嘆願を行ったのが清盛の継母・池禅尼(平頼盛の母)である。この決定が約 20 年後に平家を滅ぼす源頼朝の挙兵(1180)を生んだ。
1167 年(仁安 2)、武士として初の太政大臣に就任(在任 3 ヶ月で出家)、以後は六波羅・福原(現神戸市兵庫区)を拠点に院政期の政治・経済を支配。1172 年(承安 2)に娘徳子を高倉天皇の中宮とし、1178 年(治承 2)に外孫安徳天皇が誕生、1180 年に 3 歳の安徳が即位して清盛は外祖父となる。同年 6 月には福原遷都を強行(11 月に京へ還都)、宋銭流通による商品経済の振興、厳島神社の造営、大輪田泊(神戸港)の修築など、政治経済の大規模再編を試みた。
しかし反平氏勢力は 1177 年の鹿ヶ谷の陰謀(藤原成親ら後白河近臣の反平氏密議)、1180 年 4 月の以仁王の令旨で表面化、源頼朝・木曽義仲・各地源氏の挙兵を呼ぶ。同年 12 月には子重衡が南都(東大寺・興福寺)を焼討、平家への怨恨は決定的となる。1181 年閏 2 月 4 日(和暦)、清盛は六波羅小松第で熱病(腸チフス・マラリアなど諸説)により急死、享年 64。清盛の死は平氏政権の崩壊を決定づけ、4 年後の壇ノ浦で一族はほぼ滅ぶ。
『平家物語』では「驕れる者」の典型として描かれる一方、近年研究(高橋昌明など)では宋銭流通・厳島神社造営・福原構想など近代的経済人としての評価も高まっている。2012 年 NHK 大河ドラマ『平清盛』(主演:松山ケンイチ)で再評価された。
清盛の最初の正室・高階基章娘の長男として 1138 年に誕生。妻は藤原経子(藤原成親の妹)。1156 年保元の乱・1159 年平治の乱で父の戦線に従い軍功を上げる。嘉応 2 年(1170 年)に権大納言、安元 3 年(治承元年/1177 年)正月に左近衛大将、同年 3 月に内大臣に就任し、平家の公家化路線の中核人物となった。
『平家物語』では穏健派・諫言役として描かれ、父清盛が後白河上皇を幽閉しようとした際に「君の御為には不忠、父の御為には不孝」と諫めて挙兵を中止させたという有名な逸話がある(史実かは諸説あり)。1177 年の鹿ヶ谷の陰謀事件では、捕縛された義兄藤原成親の助命を父に嘆願し、流罪にとどめた(成親は配流先で死去)。
1179 年(治承 3)7 月 29 日、病(脚気あるいは瘧の説)で 42 歳で病没。重盛の死は平家にとって大きな損失で、温和な調整役を失った清盛は同年 11 月に治承三年の政変を起こして後白河を鳥羽殿に幽閉、関白藤原基房を解任するなど暴走、これが反平氏勢力の決起を招いた。重盛の系統(小松家)は維盛・資盛ら 6 男を残したが、ほぼ全員が源平合戦で死去または処刑された。
清盛の三男、母は継室平時子。1147 年生まれ。1167 年権中納言、1170 年正三位、平家全盛期に公卿として昇進。兄重盛の死(1179)で平家嫡流を継承、1180 年に内大臣となった。1181 年閏 2 月の父清盛急逝で、34 歳で平家棟梁となる。
しかし父の遺言「天下の事は宗盛に任すべし」を担うには資質が不足し、北陸での木曽義仲台頭、富士川敗戦の収拾、東国情勢の制御で次々判断を誤ったと『平家物語』『玉葉』は批判する(近年研究では一定の擁護論もある)。1183 年 7 月、木曽義仲の入京を前に三種の神器・安徳天皇を奉じて都落ちを決行、西国へ転戦。1184 年一ノ谷の戦い、1185 年屋島の戦いで連敗、3 月 24 日(和暦)の壇ノ浦の戦いで生捕りとなる。源頼朝・義経との面会後、鎌倉送りされ帰京途中の 6 月 21 日、近江篠原で子清宗とともに斬首。享年 39。源平合戦で斬首された平家の最高位人物となった。
清盛の四男、母は継室平時子。1152 年生まれ。兄重盛・宗盛と異なり武人として頭角を現し、1180 年富士川の戦い、1183 年水島の戦い(平家勝利)、1184 年一ノ谷の戦い、1185 年屋島・壇ノ浦と源平合戦の主戦線を指揮した。
1184 年一ノ谷の戦いでは長男知章が父知盛を逃すために身代わりとなり戦死、自身も命からがら脱出した。1185 年 3 月 24 日(和暦)の壇ノ浦の戦いでは平家方の主将として奮戦、敗色濃厚となるや船を駆け回って戦況を確かめた後、有名な「見るべきほどのことは見つ。今は自害せん(見届けるべきことはすべて見届けた、今は自害する)」の言葉を残し、敵方に生捕りとならぬよう碇(いかり)を担いで入水したと『平家物語』は劇的に描く。享年 34。
知盛の最期は能『船弁慶』『碇潜(いかりかづき)』、歌舞伎『義経千本桜』(渡海屋・大物浦の段)などで繰り返し題材化され、源平合戦の悲劇美を象徴する武将として日本人の記憶に深く刻まれる。
清盛の長女、母は継室平時子。1155 年生まれ。1172 年(承安 2)2 月、17 歳で高倉天皇(11 歳)の中宮として入内、平家の天皇家との婚姻同盟を象徴する存在となった。1178 年(治承 2)11 月、安徳天皇を出産、平家政権の最高の正統性根拠を提供。1180 年に高倉天皇譲位後の安徳即位で皇太后、1181 年高倉院崩御後は院号宣下を受け建礼門院となる。
1183 年 7 月の都落ちで母時子・子安徳とともに西海へ。1185 年 3 月 24 日の壇ノ浦の戦いで母時子は安徳を抱いて入水、徳子も後を追って入水したが、源氏方の武者に熊手で髪を引き上げられて救助された(『平家物語』)。捕囚として京に送られ、5 月に出家、洛北大原の寂光院(現京都市左京区)に隠棲。1186 年(文治 2)、後白河上皇による大原御幸で旧主に再会、平家滅亡から 1 年後の対面で平家の鎮魂を語ったとされる。1214 年(建保 1)、29 年間の祈りの生活を経て、寂光院で 60 歳で没。
『平家物語』の最終巻「灌頂巻」は徳子の視点から平家滅亡を回顧する形式で、日本中世文学の金字塔とされる。能『大原御幸』、徳子に仕えた女房・建礼門院右京大夫の歌集『建礼門院右京大夫集』にも徳子の姿が描かれる。
高倉天皇と平徳子(建礼門院)の第一皇子(言仁親王)として 1178 年 11 月 12 日(和暦)に誕生。生後すぐ立太子。1180 年 3 月 18 日(和暦)、外祖父清盛の意向によりわずか満 1 歳 3 ヶ月(数え 3 歳)で第 81 代天皇に即位、これにより清盛は天皇家の外祖父となり平氏政権の権威的頂点に達した。
1183 年 7 月、木曽義仲の入京を前に祖母時子・母徳子・伯父宗盛らと三種の神器を奉じて都落ち、西海を流転。1185 年 3 月 24 日(和暦)、長門国壇ノ浦(現山口県下関市)の海戦で平家敗色濃厚となるや、祖母平時子(二位尼)が安徳を抱きかかえ、宝剣(草薙剣)・神璽(勾玉)とともに入水。『平家物語』は時子が幼帝を慰めて「波の底にも都の候ふぞ(海の底にも都はあるのですよ)」と語った場面を最も劇的な箇所として描く。満 6 歳(数え 8 歳)で崩御、日本史上唯一の戦死天皇となった。
三種の神器のうち草薙剣は壇ノ浦で海中に失われたとされ(玉璽・神鏡は源氏方が回収)、後に伊勢神宮の剣を「形代」として代用したとされる(神話の経緯と伊勢神宮草薙剣の関係には諸説あり)。陵墓は山口県下関市の赤間神宮(阿弥陀寺陵)。各地に安徳天皇生存伝説(対馬・薩摩硫黄島・徳島県祖谷など)が残るが、これらは後世の伝承であり、史実としては入水死が同時代記録(『平家物語』『玉葉』『吾妻鏡』)で一致する通説である。
平家は桓武天皇(737-806)を祖と仰ぐ桓武平氏の血脈に属する。889 年(寛平 1)頃、桓武天皇の曾孫高望王が「平」姓を下賜されて臣籍降下し(平高望)、その子孫が東国・伊勢で武士団を形成した。10 世紀に平将門の乱(935-940)が起きた東国の桓武平氏(将門系)は乱後に勢力を失い、代わりに貞盛(将門を討った国香の子)を祖とする伊勢の支流が、武家平氏の本流(伊勢平氏)として発展する。
清盛の高祖父にあたる維衡(これひら)が 11 世紀初頭に伊勢守として下向、伊勢国を一族の本拠とした。曾祖父・祖父の代を経て、清盛の祖父正盛(?-1121)が 1096 年(永長 1)に伊勢守となり、白河院の北面武士として院政期権力に近接、海賊追討で武名を上げた。これが平家「京進出」の基礎となった。
なお、桓武平氏には武家(伊勢平氏)とは別に、公家として朝廷事務を担う高棟流(堂上平氏)もあるが、本記事で扱う「平家」は専ら武家・伊勢平氏嫡流を指す。清盛の継室・平時子(二位尼)とその妹・建春門院滋子(後白河寵姫、高倉天皇生母)はこの堂上平氏出身であり、武家平氏が公家平氏との二重の婚姻で朝廷内地位を強化した点は重要である。
清盛の父平忠盛(1096-1153)は 1108 年(天仁 1)、内昇殿を許されて武家として初の殿上人となり、武士が公家社会の上層に食い込む先鞭を付けた。鳥羽院の近臣として瀬戸内海の海賊討伐を担い、海上交通の支配権を獲得。これを背景に日宋貿易(博多・大宰府経由)に本格参入し、宋銭・絹・薬種・典籍などの輸入で平氏一門に莫大な富をもたらした。
この経済力こそが、後の清盛による太政大臣昇進・福原遷都・厳島神社造営・大輪田泊修築といった大規模事業を可能にした基盤である。摂関家(藤原摂関家)の経済基盤が荘園であったのに対し、平家は海上交易という当時としては最先端の経済活動で財政基盤を築いたところに、平氏政権の近代的な側面がある(高橋昌明『平清盛: 福原の夢』講談社学術文庫、2019)。
1156 年(保元 1)7 月、保元の乱が勃発。後白河天皇 vs 兄崇徳上皇、藤原忠通 vs 弟頼長という朝廷・摂関家の二重対立に、武家(源氏・平氏)も両陣営に分かれて参戦した。清盛は後白河方として参戦、源義朝(頼朝の父)・源為朝(義朝の弟)らと共に上皇方(崇徳・頼長・源為義)を破った。乱後、清盛は播磨守に転じ、京の軍事力の一翼を握る。
1159 年(平治 1)12 月、後白河院政期に入って起きた平治の乱で、清盛は決定的な勝利を収める。藤原信頼・源義朝が起こしたクーデターを清盛が鎮圧、信頼を斬首し義朝を尾張で討たせた。義朝の遺児頼朝(13 歳)は捕縛されたが、清盛の継母池禅尼(忠盛の継室、頼盛の母)が「亡き我が子に似ている」として助命嘆願、頼朝は伊豆配流に減刑された。この池禅尼の決断こそが、20 年後の頼朝挙兵 → 平家滅亡 → 鎌倉幕府成立の遠因となる、平家史上最大の「運命の岐路」であった。
1167 年(仁安 2)2 月、清盛は武士として初の太政大臣に就任(在任 3 ヶ月、即出家して浄海と号した)。これは武家が摂関家・大臣家と並ぶ公家社会最上層に並んだ歴史的事件であり、平氏政権の頂点を象徴する。同時期、清盛は娘たちの戦略的婚姻を進めた。
この婚姻網は摂関家の婚姻政治を縮小コピーしたもので、清盛は外戚として朝廷を支配する仕組みを構築した。1180 年 3 月、わずか 3 歳の安徳天皇即位により、清盛は外祖父として平氏政権の権威的頂点に立った。
並行して清盛は福原(現神戸市兵庫区、現代の神戸港)の経営に注力した。大輪田泊の修築、宋船の入港、宋銭の流通促進、福原遷都の構想(1180 年 6 月に強行、11 月に京へ還都)など、京中心の伝統的政治体制から海洋商業国家への転換を試みた。厳島神社(広島県廿日市市、現世界遺産)の造営と『平家納経』奉納はこの時期の事業で、海洋に開かれた平家の宗教的拠点として整備された。
しかし平家の急成長は朝廷・寺社・地方武士の反感を集めた。1177 年(治承 1)6 月、後白河院近臣の藤原成親(重盛室の兄)・西光・俊寛らが京の鹿ヶ谷山荘で反平氏密議を行い、これが発覚して関係者が処分された(鹿ヶ谷の陰謀)。重盛は義兄成親の助命を父に嘆願したが、成親は配流先で死去した。
1179 年(治承 3)7 月、平家穏健派の中核重盛が 42 歳で病没。歯止めを失った清盛は同年 11 月、治承三年の政変を起こして後白河を鳥羽殿に幽閉、関白藤原基房を解任、知行国を平家の管理下に置いた。これが反平氏勢力の決起を招き、1180 年 4 月、後白河の子以仁王が源頼政と組んで令旨を発し、各地源氏に挙兵を促した。
1180 年 8 月、伊豆で源頼朝が挙兵、9 月には信濃で木曽義仲が挙兵。同年 11 月、平家の東国討伐軍は富士川で頼朝軍に対峙したが、水鳥の羽音に驚いて敗走するという失態を演じた(富士川の戦い)。同年 12 月 28 日(和暦)、清盛の五男重衡が東大寺・興福寺の僧兵鎮圧のため南都を攻撃、東大寺大仏(盧舎那仏)が焼け落ちる惨事となった(後の鎌倉時代に重源・運慶らによって再建)。南都焼討は平家の道徳的正統性を決定的に損なった。
1181 年(治承 5)閏 2 月 4 日(和暦)、清盛が六波羅小松第で熱病により急死、享年 64。後継の宗盛は父・兄に比べて統率力に欠け、平氏政権は急速に崩壊する。1183 年 7 月、北陸から京へ迫る木曽義仲を前に、平家は安徳天皇・三種の神器・建礼門院徳子を奉じて都落ちを敢行、西海を流転する旅となった。
1184 年 2 月 7 日(和暦)、摂津一ノ谷の戦い(現神戸市須磨区)で源義経の鵯越の逆落とし奇襲を受け平家は大敗、清盛の甥敦盛(16 歳)が源氏方の熊谷直実に討たれた。直実が我が子と同年代の敦盛を斬った悲嘆は『平家物語』屈指の名場面で、能『敦盛』(世阿弥作)・幸若舞『敦盛』(織田信長愛唱「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり」)の題材となった。
1185 年 2 月、四国屋島の戦いで再敗北。3 月 24 日(和暦)、長門国壇ノ浦(現山口県下関市)で源義経率いる源氏水軍と平家水軍が激突。当初は潮流を読んだ平家が優勢であったが潮目が逆転、平家方の阿波民部成良が源氏に寝返ったことで戦況が崩れ、平家敗色濃厚となる。
祖母平時子(二位尼、清盛継室)は 7 歳の孫安徳天皇を抱きかかえ、宝剣(草薙剣)・神璽(勾玉)とともに入水。「波の底にも都の候ふぞ」と幼帝を慰めた場面は『平家物語』の象徴的箇所である。知盛は「見るべきほどのことは見つ」と言い残して碇を担いで入水、重衡は捕虜となり後に南都衆徒の要求で木津川河畔で斬首、宗盛は捕虜として鎌倉送りの後、近江篠原で子清宗とともに斬首。徳子は救助されて出家、洛北大原寂光院に隠棲。草薙剣は壇ノ浦で海中に失われたとされる(玉璽・神鏡は源氏方が回収)。
平家滅亡。1167 年の太政大臣就任から数えてわずか 18 年、清盛死没から数えて 4 年での崩壊であった。
平家滅亡後、清盛の異母弟頼盛(池禅尼の子)は 1160 年の頼朝助命の縁から頼朝に投降して京に住み、1186 年に 53 歳で没。平氏一族で唯一まともな最期を迎えた人物となった。子孫は鎌倉時代に存続し、後世「伊勢宗瑞(北条早雲)が伊勢平氏頼盛流を称した」という系譜伝承を生み(史実性は議論あり)、戦国大名の後北条氏や、執権北条氏の自称する伊勢平氏直方流(これも執権北条氏が桓武平氏伊勢流の出身を主張する根拠)へとつながる、細い継承の糸を残した。
また平家滅亡後の落武者伝説は日本各地に残る。徳島県祖谷(いや)、富山県五箇山、宮崎県椎葉、岐阜県白川郷、対馬、薩摩硫黄島など、辺境の山深い地に「平家の末裔」を称する集落が今も多く存在する(角田文衞『平家後抄: 落日後の平家』朝日選書、2000)。歌人建礼門院右京大夫(平資盛の恋人、徳子の女房)は私家集『建礼門院右京大夫集』を残し、滅亡した平家への哀悼を中世女性文学の傑作として後世に伝えた。
平家の家紋として広く認識されているのは揚羽蝶(あげはちょう)、別名「対い蝶」「平家蝶」「蝶紋」である。蝶は古来より変態と再生・霊魂の象徴とされ、武家の家紋として中世以降に定着した。
ただし清盛の時代(12 世紀)には日本の家紋制度自体がまだ確立しておらず、揚羽蝶が平家の象徴として一般化したのは後世(中世以降)である。『平家物語』の流布とともに後世に固定化された象徴であり、平家の同時代記録に「揚羽蝶を家紋とした」という直接の言及があるわけではない。
桓武平氏系を自称する後世の武家は揚羽蝶を継承した例が多い。一方で、後北条氏(伊勢宗瑞系)は三つ鱗を、織田氏は瓜紋(揚羽蝶を補助紋としたとも)を用いるなど、桓武平氏系統といっても家紋は多様化している。家紋について詳しくは 家紋のすべて や 家紋の基礎 を参照。